感想:映画『イカとクジラ』 親といえども人間、しかし……

【製作:アメリカ合衆国 2005年公開(日本公開:2006年)】

かつて著作が注目を集めたものの、現在は落ち目の作家であるバーナードと、気鋭の作家として文壇に登場したばかりのジョーン。彼らはふたりの子どもを持つ夫婦だったが、不和のため離婚を決意する。
別れても、親としてともに子育てにはコミットしようと決めたバーナードとジョーンは、ウォルトとフランクの兄弟を交替でそれぞれの家に泊まらせる共同養育を始める。
しかし、これまで家事や子どもの世話を疎かにしていたバーナードは新しい生活を上手く回すことができない。一方、婚姻中から複数の男性と関係を持っていたジョーンは早々に新しいパートナーを見つける。
親と新生活に翻弄されるウォルトとフランクの複雑な心境は、彼らの行動に表れるようになる。

人間は、子どもを持っても、それによって「父」「母」としての役割に染まることはなく、個人としての思想や仕事、趣味を持ち、各々の人生を生きる。
これはひとりの人間としての権利でもある。とはいえ、子どもの立場からは、親には自身の保護者・ロールモデルとして、生活を保障するだけでなく誠実な振る舞いをすることが望まれる。この希望もまた妥当なものだ。
本作では、親としてあるべき姿に収まることのできない大人の姿と、それに対して子どもがどう反応するかを描く。
また、この過程で家父長制にも懐疑的なまなざしが向けられる。

バーナードとジョーンは、ともに「品行方正」ではなく、欲望や虚栄心を言動に滲ませる人物だ。
バーナードは人気作家だった過去の栄光に縋っており、10代のウォルトの恋愛について「目立たない子を練習台にし、本命を別に持っておけ」という不誠実なアドバイスをするなど、情けなく、大人としての責任感に欠けた人物である。離婚に伴い初めて家事にコミットするようになった彼は、家を清潔に保てず、料理でも失敗するが、「家事をし、父親の役割を果たしている」と事あるごとに強調する。
他方、ジョーンは家事や育児といった保護者としての仕事は行っていたものの、性愛に関して奔放であり、バーナードと婚姻していた時期から複数の男性と不倫関係を持っていたことが明かされる。
ウォルトの幼少期の思い出(専ら母親が自分を世話して遊びに連れ出し、父親は作家として成功していた時期で書斎にこもっていたためあまり記憶に残っていない)や、ジョーンもバーナード同様に文学で博士号を取得しており、子育てが一段落してから執筆を始めたという点から、彼女が文筆業でキャリアを築くことを一時的に断念し、ひとりで「親」としての役割を担っていたことが窺える。
個人的にはバーナードの言動の不誠実さもあり、「妻・母」としての仕事を優先して個人としてしたいことができない状況でジョーンが家の外に救いを求めたことや、離婚後の彼女の切り換えの早さを肯定したいと感じたし、「女性映画」としての側面が強い作品であれば、そのような切り口で描かれていたのではとも思う。
一方、バーナードの不誠実さも、角度によってはロマンティックに演出されうるものだろう(言動に瑕疵のある男性を「ダメ親父」というキャラクターで肯定的に描く作品は多い)
しかし、本作は子どもの目線から描かれた作品であり、こうした親の「人間らしさ」が子ども達を振り回す様子が強調される。

両親の不和に際し、兄のウォルトは父寄り、弟のフランクは母寄りの立場をとる。一方で、その後ふたりがとる「問題行動」は、彼らがそれぞれ肩を持っている方の親の欠点を連想させるものだ。
ウォルトのギター演奏会での盗作はクリエイティビティが枯渇しているにも関わらずそれを認めたがらないバーナードを彷彿とさせる。酒を飲み、自慰に耽り、精液を他人のロッカーに塗りつけるフランクの行為は、大人になることを急ぐ姿勢や性的な放縦を示唆し、これは複数人の男性と肉体関係にあることを子どもに隠さないジョーンの姿勢につながる。
そして、ふたりのこうした行動の端緒となったのは、離婚直前の両親の振る舞いである。

序盤で離婚の意思を告げられた後、ウォルトはオリジナルの曲を家族の前で弾き語りする。この曲の歌詞は家族が従来通りともに暮らし、両親が和解することを望む内容だが、この願いは聞き入れられるどころか真摯に受け止められることもなく、バーナードとジョーンは予定通り離婚し、むしろその確執が浮き彫りになっていく。
4人の食事の席で鼻にカシューナッツを詰めたフランクの行為は叱責されるものの、彼の鼻からナッツが取れていないことには誰も気づかず、フランクはそれを抱えたまま生活し、次第に上述の行動をとるようになる(彼が終盤、大量の酒を受け付けず嘔吐した際にナッツは放出される)
バーナードとジョーンがそれぞれ個としての自己を優先し、子ども達を後景化したことを、彼らは鋭敏に感じ取る。自らの意思が親に尊重されていないという意識が、子ども達の「問題行動」という形で表れるのだ。

表題である「イカとクジラ」(The Squid and the Whale)は、幼少期のウォルトがジョーンに連れられて訪れた科学館の展示を指す。
彼は当時その模型を恐ろしく感じて見ることができず、また母と科学館に行ったことそのものもカウンセラーに訊ねられるまでは意識に上っていなかった。
母の不倫に嫌悪感を示し、父の肩を持つウォルトの姿勢は、小さい頃は常に母が自分の面倒を見ていたこと、それ故に母が自分達と距離を置いたことに対し、裏切られたという感覚が強いことの裏返しである。
カウンセリングや、父の虚栄的な言動を通じて、ウォルトは自分の感情や思考を見つめ直す。
ラストシーンで幼い頃は目を逸らしていたイカとクジラの模型を直視するウォルトの姿は、彼が両親の不和や、父と母が「人間」であることと向き合い、成長したことを表す。

ビデオカメラで撮ったようなざらついた映像はホームビデオを思わせ、家族の分解を描く本作のテーマと相まってシニカルな印象を与える。
バーナードとジョーンの不和は「喧嘩両成敗」ではなく、ジョーンが過度に家族に献身することを迫られる不均衡に端を発したものであることが窺え、作中でもその構造は明確に描かれる。一方で、後景化される子どもの立場からすればそのような客観的なまなざしはあまり意味を持たないことも同時に示されている。
淡々とした筆致によって大人の目線と子どもの目線がスムースに両立して描かれていることが印象的だった。

いいなと思ったら応援しよう!