感想:映画『百万円と苦虫女』何者にもならずに生きることは可能か
【製作:日本 2008年公開】
就職活動がうまくいかず、短大卒業後はフリーターとして生活する鈴子。アルバイト先の同僚とルームシェアをすることになるものの、度重なるトラブルの末に収監・告訴され、「前科持ち」になる。
地元で噂が広がり、窮屈さを覚える鈴子は、アルバイトや派遣の仕事で100万円を貯め、それを元手に家を出る。
以降、100万円が貯まるごとに住む場所を変えて働く彼女が、様々な経験を通して自分の生き方や対人関係についての考え方を変化させていく様子を描く。
本作は、集団に馴染むことが苦手な人間にとっての日本社会の生きづらさを基調としながら、適切な他者との距離の取り方やコミュニケーションの姿勢を模索する作品だ。
主人公・鈴子は団地に住んでおり、子どもの頃から固定された人間関係の中にいる。
鈴子は学生時代、地元の同級生とあまり関係が良くなかったことが示唆される。また、彼女の弟で小学生の拓也は現在進行形でいじめに遭っており、地元のコミュニティから抜け出すべく中学受験の勉強に励む。
鈴子の収監・訴訟が団地内で噂になり、偏見に基づいた言葉が交わされる様子は、同調圧力が強く、集団の基準から外れることが受け入れられづらい日本社会の特徴を反映している。
こうした旧弊的な社会の在り方は、鈴子が点々とする各地での出来事においても再現される。
地元、海辺の町、山間の村、郊外という4つの土地で一貫して描かれるのは、「集団の中で役割を規定され、"何者か"を規定される」ことへの違和感、そして何者にもならずに生きることの難しさである。(このように「外部から規定される役割」とジェンダーバイアスは不可分であり、作中には女性性への抑圧もしばしば登場する)
作中でも言及される通り、鈴子は自身のアイデンティティに迷いがある訳ではない。
むしろ、彼女は確立した自己像が他者のまなざしや規定によって掻き乱されることを拒む。鈴子はどの場所に住む場合も手作りのカーテンを窓にかける。これは自己と外界を明確に隔てたいという志向の表れといえる。
ただ、鈴子は確立した自我を持つ一方で、自分の考えや気持ちを口にすることによる摩擦を避ける傾向にある。このため、意思表明を避け続け、事態が悪化したところでフラストレーションを爆発させて極端な言動を行い、関係の修復が難しくなる。
彼女は集団に溶け込むことが苦手だが、他人との交流そのものを拒んではいない。様々な経験の末、鈴子は最後に他人と向き合うことから逃げないことを宣言する。
本作は映像・内容の両面で他人との交流の在り方に重層性がある点が面白かった。
周囲に馴染みづらかった鈴子にとって、同じく集団が苦手な中島は得難い存在である。序盤で地元の同級生とのトラブルの際に登場したスーパーの買い物袋やネギといったモチーフは中島との邂逅で再度用いられ、鈴子のネガティブな経験がロマンスに付随する前向きなものに塗り替えられることが強調される。
その後、他人との交流を避けていた鈴子は中島とキスやセックスを行い、彼のパートナーという「役割」を得ることになる。
ただ、他者との距離が近いことは本作では必ずしも肯定されない。
鈴子が中島とスキンシップをとるショットは、弟の拓也が学校で同級生にフィジカルで凄惨ないじめを受けるショットと併置される。肉体的接触の二面性を明らかにするシニカルな編集は、その後の鈴子と中島の顛末を示唆してもいる。
中島は鈴子と同じく、言葉での気持ちの表明が苦手な人物だ。彼は鈴子が100万円を貯めて自分の元を去ることを恐れるあまり、お金を頻繁に無心し、目標額の達成を阻止しようとする。
中島の真意は伝わることなく、鈴子は彼への「献身」に疲れ、関係を清算して郊外の町を出ることを決める。
出発の日、中島は一念発起し、彼女を引き止めようと駅まで急ぐが、鈴子が寄り道をするなどの偶然によってふたりはすれ違う。
ラストシーンで、ふたりは同じ立体歩道橋の別の場所に立ち、それぞれお互いの姿を探して振り返る。そのまなざしはショット切り返しショットで交錯するように見えるが、実際には鈴子から中島の姿は見えておらず、彼女が「来る訳ないか」とつぶやいて駅へと向かう後ろ姿で作品は終わる。
鈴子と中島は同じフレームの中にいるショットが多く、編集で「近づけられる」ことさえあるが、反面精神的な距離は離れていき、作品内で再度近づくことはない。
終盤の中島よりも、別れの場面以外はほとんど鈴子と同じフレームに入ることのない山間の村の春夫や、手紙でのみやり取りをしている拓也のほうが鈴子とうまくコミュニケーションを取っている(春夫と拓也も不器用だが、彼らは言葉を尽くす)
やみくもに他者を遠ざけるのでも、距離の近さに甘えるのでもなく、適切な距離をとり、自分の意思を伝えることの重要性が強調されていた。
ラストシーンの後の展開は鑑賞者の想像に委ねられるが、個人的には中島も鈴子を見つけられておらず(もしくは見つけていても追いかけず)、ふたりが会うことのない展開が良いと思う(中島は恋人関係になった途端「夕ご飯作ってよ」と鈴子に言う人物であり、金の無心という酷いアプローチの仕方を考えても、彼女を尊重しているとは思えなかった)
なお、「他者と向き合う」ことと「理不尽な状況から逃げない」ことが混同されている点はかなり気になった。自分の心身を悪意を持って蹂躙する他者に向き合う必要はない。拓也は転校・中学受験を行うべきだと思う。
また、母をはじめとしたほとんどの女性が鈴子にとって頼りにならない存在として描かれているのにもやや違和感があった。噂を積極的に流布したり、異性のパートナーとの関係を優先して不誠実な態度を取るといった描写はややステレオタイプなものである。もう少し女性を信用してもいいのでは…とは感じた。