感想:映画『名探偵ピカチュウ』 ポケモンの「原点回帰」
【製作:アメリカ合衆国・日本 2019年公開】
かつてポケモントレーナーを目指していた青年ティムは、探偵である父ハリーとのすれ違いをきっかけに、夢をあきらめ、パートナーとなるポケモンも持たず、保険調査員として働いていた。
しかし、彼のもとに、ハリーが自動車事故に遭ったという知らせが届く。
ハリーが住むライムシティを訪ねたティムは、父の生存は絶望的であるという知らせとともに、彼の住むアパートの部屋の鍵を渡される。
かつて自分も住んでいたその部屋で、ティムはハリーのパートナーである、探偵帽を被ったピカチュウと出会う。
事故に遭うまでの記憶を失い、探偵帽の住所を頼りに部屋にたどり着いたピカチュウ。不思議なことに、彼の放つ言葉を、ティムだけが人間の言語として解することができた。
ハリーの事故の真相を追うべく、協力することになったティムとピカチュウ。
その事故を追った先には、「ポケモンバトルが存在せず、ポケモンと人間がパートナーシップを築く街」であるライムシティ全体を巻き込む、大きな企てが待ち受けていた。
本作は、同名のゲームを原作とし、「ポケモン」のメディアミックス作品としては初めての実写映画として製作された。
タイトルロールであるピカチュウをはじめ、登場するポケモンは、表皮や毛などのテクスチャーや表情が3DCGで細かに表現され、「ポケモンと生身の人間が共存する世界」がもっともらしいものとして描かれている。
この感想では、キャラクタービジネスとして世界規模の人気を博し、無数のメディアミックスが展開される「ポケモン」というジャンルにおいて、本作がどのように位置づけられるかや、3DCGを駆使した映像演出が、作品にどのような効果を与えているかに焦点を当てたい。
「ポケモン」は、1996年に発売されたゲームボーイソフト『ポケットモンスター 赤・緑』に端を発するゲームシリーズを中心に発展してきた、複合的なメディアミックスが行われているタイトルである。
派生作品も含めたゲームシリーズ、1997年から25年にわたって放送されているテレビアニメ、カードゲーム、『Pokemon Go』をはじめとしたスマートフォン向けアプリ、漫画、キャラクターグッズなど、「ポケモン」の名を冠した作品やグッズは、媒体の枠を超えて数多く存在する。
そして、その中心にいるのが、今や900種を超える「モンスター」だ。現実に存在する生き物や無機物をモチーフにしたキャラクター達は、媒体によって様々なタッチで描かれ、3DCGモデルとして描画されたり、ぬいぐるみや着ぐるみとして立体的に姿を表しながら、様々なメディアを横断する。
世界規模のキャラクタービジネスとして強度を増し続ける「ポケモン」が、初めて制作した「実写映画」である本作は、膨張し続けるポケモンの世界の原点を探るものであったと考える。
本作の世界観や筋立て、設定には、ポケモンの世界、とりわけその中核を成すゲームシリーズとテレビアニメの性質に対する自己言及がみられる。
舞台となる「ライムシティ」は、ポケモンバトルが禁じられ、ポケモンと人間は使役関係になく、対等なパートナーシップを結んでいる街だ。
これは、「ゲットしたポケモンをバトルによって育て、より強い相手と対戦し、ポケモンバトルのチャンピオンを目指す」という、ポケモンの根幹をなす構造を封じるものである(テレビアニメやポケモンカードなども、「バトル」が中心に置かれている)
また、本作の「父と子の物語」という構造も、ポケモンの世界ではあまり描かれてこなかったものである。とりわけ、出発点であるゲーム「赤・緑」と、その設定を踏襲するテレビアニメは「父親がいないポケモントレーナー」を主人公としている。「父親がいて、ポケモントレーナーになることを選ばなかった人物」であるティムは、初期のポケモン主人公像とは対照的な人物だ。
この設定をもとに描かれる物語は、「科学力による自然の操作、人間による自然の支配を問う」「ポケモンと人間の境界の確立」をテーマとする。
前者については、『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』(1998年)を筆頭に、初期のポケモン関連作品で問われてきたものだ。
発見・ゲットすると「図鑑」にそのデータが記録されていく不思議な生き物「ポケモン」という概念は、現実世界において、野山で昆虫採集などを行い、未知の生き物に触れる行為にインスピレーションを得たものである。
1990年代当時に失われつつあると捉えられていた「豊かな自然の中を駆け巡る少年時代」への憧憬と、そういった自然を特に大企業が主導して破壊・操作することへの批判が、初期ポケモンのコンセプトである。科学技術を濫用し、ポケモンや市民に悪影響を及ぼす組織「ロケット団」と、遺伝子操作によって生まれたポケモン・ミュウツーのエピソードは、それを象徴するものだ。
一方で、生き物を使役してバトルを行うことを主軸とする「ポケモン」の世界観では、モンスターが「ツール」とされることは避けられない。
「赤・緑」の時点から、それぞれのポケモンが生得的に持つ「個体値」と、成長過程によってポケモンのステータスに影響を及ぼす「努力値」というパラメーターの設定がなされ、より強いポケモンを育て、バトルに勝つためには、個体の選別が不可欠である、という概念は、コアなファンの間では周知のものとなった。
優れた「個体値」を持つポケモンを手にするため、大量のポケモンのタマゴを孵化させ、プレイヤーの期待に満たないポケモンは手放す、という、上記で批判されたような「人間による自然(ポケモン)の操作」がプレイヤー自身によって行われている状況だ。また、数年置きにゲームハードが刷新される中で、絶えず新作を追い続ける熱心なファンほど、個体値/努力値という「公然の秘密」を共有し、実践することになる(この知識がなければ、通信対戦の文化に参入するはほぼ不可能なので、自然な起結ではある)
制作側も、プレイヤーによるこうした「厳選」の文化を意識し、ゲーム内のNPCがジョークとして口にするなどの自己言及が行われる。
また、900を超えるすべてのポケモンに名前と特徴があり、すべてのポケモンが等しく尊い存在である、というメッセージも、形や大きさによる優劣をつけず、多様な生き物を肯定する姿勢につながる。
これについても、現実的にはポケモンの強さやキャラクタービジネスにおける人気などは確かに存在するため、制作者側も含め、常にせめぎ合いが起こっている。
「赤・緑」以来、シリーズのメインシナリオでは、科学や力の濫用、ポケモンを道具として利用することは一貫して批判され続け、ポケモンは「不思議な生き物」として、等しく尊ばれるべき存在だと語られる。
同時に、プレイヤー自身がポケモンを戦いに勝つための道具、あるいは消費しうるキャラクターとして捉え、選別しており、制作側もそれを許容し、また促してもいる。
「ポケモンバトル」を行い、キャラクタービジネスを行う限り、逃れられない矛盾を持ちながら、ポケモンの世界は絶えず拡大し続けている。
「バトル」を封じ、米国でつくられた実写映画という、従来のメディアミックスとは距離をとった場所で、ポケモンが「自らがどこから始まったのか、何を理念としているのか」という原点回帰を行ったのが、本作だと考えられる。
本作の物語は、初期ポケモンが提唱していたテーマに非常に忠実なものだ。
ヴィランであるハワードは、癌を患い、歩行ができなくなったことを契機に、自らの肉体を捨て、精神をミュウツーに宿らせることで、強大な力と世界の支配を企てる思考を持つ存在へと「進化」しようと試みる。
ポケモンゲームの世界においては主人公を導く権威である「博士」のローランは、ポケモンへの暴力的な生体実験を行い、戦闘に要する能力の増強や、巨大化を図り、最終的には実験体であったミュウツーによって返り討ちに遭ったことが示唆される。
こうしたヴィランの行為は、ポケモンと人間が対等であり、それぞれが尊重されるべき存在であること、各個体がそれぞれに与えられた姿や能力を受け入れた上で活かすことの重要性をもって否定される。
作品内に登場するポケモンは、主要登場モンスターであるピカチュウ・ミュウツー・コダックをはじめ、「赤・緑」に登場した151匹に属するものが多い。
そして、ティムと瀕死の状態になったピカチュウを導くのは、ずかん番号No.1のポケモンであり、広がり続けるポケモン世界の「起点」といえるフシギダネである。
こうした構造からも、意識的に「赤・緑」のコンセプトをなぞろうとする姿勢が窺える。
ピカチュウの作中での変遷によって、「大義(他者やコミュニティを守るため等)のあるバトルは行うことができる」といった留保を行いながら、本作はポケモンが当初打ち立てたテーマを語り直し、「初心に帰る」。
本作は、四半世紀にわたって続いてきたメディアミックスコンテンツとして、ファンダムを中心とした文化を肯定しながらも、ポケモンが何をテーマとして始まったタイトルであるかを、「ポケモン」自身が再確認するような作品だと感じた。
本作は、上記のほかにも、ポケモンというコンテンツの軸にある特徴・概念を強く示している面がある。
冒頭で挙げたように、生身の人間と同じフレームに収まるため、本作におけるポケモンは、三次元の空間に実在することを想定して緻密にモデリングされている。
これは、2Dでの表現であるドット絵やアニメほかのメディアミックスでの絵のタッチ、また、近年のゲームタイトルや『Pokemon Go』を中心にみられる、2D表現を踏襲した3DCGモデリングとは異なる。
平面的で、簡略化でき、だからこそ複数のメディアを横断して消費できる「キャラ」であったモンスターに、(擬似的な)3次元の現実を生きる存在としての身体性を付与したのが『名探偵ピカチュウ』である。実際に、本作で登場するポケモンは、質感や表情、動きの生々しさが追求されている。
同一種のポケモンが群れで登場する場面も多いが、これはCG作画上の利点に加え、それぞれの個体が確かに生きているというメッセージを伝える役割も果たしている。
一方で、こうした質感のある身体が与えられることで、描かれたポケモン達からは感情移入を促す記号性、キャラクター性(伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』における「現前性」)が失われる。
これは、メディアミックスによるキャラ図像の増殖から距離を置く上では効果がある一方で、ストーリーテリングにおいては、ポケモンへの感情移入を妨げ、観客の情動を誘う効果を損なう側面がある。
ピカチュウの声優に、著名な俳優であるライアン・レイノルズを起用し、過剰なまでに表情をつけ、「人間味ある」仕草をさせるのは、「現前性」を補完する役割があると考えられる。
本作の世界は、映像と物語の構造の両面で、基本的には「閉じている」。
ライムシティは、ポケモンが3次元空間に存在して動きまわり、人間と共存する世界を作り出すため、建物の位置関係から内装などのディテールも含め、徹底的にモデリングされている。ハリーの事務所やティムの自室、非合法にポケモンバトルが行われる地下クラブ、ハワードとの最終決戦が行われるライムシティのメインストリート(ならびにその上空)は、小道具のひとつひとつがきめ細かに作られた上で、カメラのピントも合わせられており、「ポケモンが暮らす"現実世界"」を巧みに演出する。また、そのように精緻に空間がつくられているからこそ、カメラは360度回転し、キャラクターのアクションを縦横無尽に追いかけることができる。
一方で、このように、3次元的に精緻につくられた世界には、可塑性や余白がない。人間どうしのやりとりも含め、本作のストーリーは、綿密に計算された「箱庭」で繰り広げられている印象を受けた。
これは、限りなく広がるメディアミックスを「原点」に収斂させる物語構造、不可解な状態から確固たる答えを見つけ出していくミステリーという本作のテーマとパラレルであるといえる。
どんな姿にも変身できるポケモンであるメタモンの存在がややネガティブに描かれていることも含め、ある種無秩序な広がりを抑え、「原則」や「骨組み」を求める、という点で一貫していると感じた。
前述したように、ポケモンバトルが存在する以上、本作で批判されるような人間とポケモンの同一化やポケモンの道具化は避けられないものである。
また、ヴィランであるハワードがホログラムでもっともらしい世界を再現し、新しい秩序に基づいた世界をつくろうとすることは、3DCGで現実味ある架空の世界をつくろうとする本作の在り方そのものとも通ずる。
本作は、自分で自分を批判するという矛盾を抱えている。しかし、その矛盾を自覚し、葛藤することは、ポケモンというタイトルにとって前向きな営為であると考える。
行方不明になったハリーが生きていることがわかり、ティムが彼と同居を始めるというラストシーンからは、ポケモンが持つ、「子どもでいる」ことを肯定する性質が読み取れる。
生と死をめぐる物語、数世代にわたるサーガ、といった題材が好まれやすいコンピューターのRPGにおいて、作中での時間経過が明瞭ではなく、主人公が大人にならず、伴侶も持たない「ポケットモンスター」シリーズの在り方は画期的であったと考えられる。テレビアニメのエンディングテーマのひとつ「ポケットにファンタジー」が象徴するように、鑑賞者/プレイヤーが「童心に帰る」ことは、ポケモンの軸となるコンセプトだろう(過去のタイトルを新しいハードでリメイクし、子どもの頃にプレイしていたユーザーへの懐古を促し、プレイ再開を図るゲームの展開も、それを物語っている)
「大人になる」ことを志向し、肯定する欧米の文化において、主人公/プレイヤーが子どもであり続けるポケモンがどのように受け取られ、どう受容されているのかについては、もっと知りたいと感じた。
また、個人的に気になったのは、「ピカチュウ」というポケモンの行方である。
本作の「名探偵ピカチュウ」のチャーミングな動きや表情、個性は、ミュウツーの手によって、彼がハリーの魂を宿していたからこそなし得たものだと説明される。
ピカチュウは、「媒介者=メディア」としての役割を持ち、このとき、個体としてのピカチュウの個性は後景化する。(本作では、ハリーの魂を持たない本来のピカチュウがどんな性格・態度だったかは説明されない)
ピカチュウの図像と、それに付随する大谷育江が演じる鳴き声そのものが、ポケモンを代表するイコンのように扱われるようになって久しい(ゲームにおける野生のピカチュウの鳴き声が大谷のものに統一されたことは、その象徴であると感じる)
イコンあるいはメディアとしてのピカチュウが強度を増すほど、いちモンスターとしてのピカチュウの内実は希薄になっているように感じる。
イコンとしてのピカチュウに導かれた一方で、トキワの森やサファリパークで出会う野生のピカチュウにも親しみを持っているので、今後、ピカチュウがどのような道を進んでいくのかについては、注目していきたいと思う。