感想:映画『ジュディ 虹の彼方に』 緑が彼女を眠らせない
【イギリス・アメリカ合衆国製作 2019年公開(日本公開:2020年】
舞台は1968年。映画『オズの魔法使』をはじめ、ハリウッドでその名を馳せたジュディ・ガーランドは、仕事への遅刻・キャンセル癖の影響で信頼を失い、ステージ歌唱で生計を立てるものの、家賃の支払いにも事欠く生活を送っていた。
元配偶者・シドニーとの子どもであるローナとジョーイとともに暮らすことを望むが、住む家がなく、夜のステージにともに立たせる生活は、子どもたちにとっては負担だった。
ジュディは、資産を確保して子どもと暮らすべく、ふたりをシドニーに預け、ロンドンでの長期公演に臨む。
1969年にこの世を去ったジュディの、晩年の日々となったロンドン公演を描く作品。
本作は、ジュディ・ガーランドのロンドン公演を中心に、浮き沈みの激しかったその生涯の背景にあるものや、彼女が人々にもたらした影響を描く。
ジュディは、13歳であった1939年に、MGMが製作した映画『オズの魔法使』に主演し、映画界にデビュー。本作は大きなヒットを記録し、その後、同スタジオの看板的な子役としてキャリアを築くことになる。
彼女の初期の活動の背景には、MGMの厳重な管理があった。
体型管理のための食事制限や、絶え間ないレッスンのために睡眠時間を割くことが要求され、ジュディは覚醒剤を与えられていた。
さらに、マスメディア向けの宣伝のため、本来の誕生日とは違う日に、セットを組んで演出された「誕生日パーティー」を行うことや、同じくMGMの子役であるミッキー・ルーニーとの「プライベートでの食事」を演出される、といった出来事があったことも作中で示される。
ジュディは、本名「パトリシア・ガム」や、生まれ持った体型など、「本来の自分」を徹底して否定される。その中で、唯一彼女が肯定されたアイデンティティが「声/歌うこと」だった。
彼女を抑圧したルイス・B・メイヤーの言葉通り、ジュディはその歌声で地位を築き上げる。ジュディにとって「歌うこと」は「生きること」と等しいが、同時に「自らを傷めつけ(られ)る」ことでもある。
この背景は、その後のジュディに深刻な影響を及ぼす。
1968年のジュディは深刻な薬物依存・アルコール依存を抱えており、うまく眠ることができないことも示唆される。
薬物依存や睡眠障がいは、明白に子役時代の過酷な労働環境とつながるものである。
また、アルコールやタバコの影響か、時折咳込むなど、喉に支障をきたしている様子も窺える。前述の通り、歌を存在のコアに置くジュディにとって、これは致命的なことだが、同時に、歌うために彼女が味わい、絶えず続いている苦しみを思えば、彼女が自ら喉を潰すことで、歌から逃れたいとどこかで考えているともとれる。
ひとたびステージに立てば、観客を魅了するパフォーマンスができるにも関わらず、そのステージに立つことがなかなかできない、という状況も、ジュディの抱える矛盾を体現したものだ。
本作では、照明や衣装、装飾などの演出において「緑色」が多用される。『オズの魔法使』を象徴するこの色は、ジュディが不安に襲われている際や、物語の展開がネガティブな方向に進む際に特に強調される。
彼女が「ジュディ・ガーランド」でいることに苦しみながらも、そのことを希求する、矛盾を抱えた心境を象徴する色といえる。
ジュディにとって、映画産業で働く人々や、スクリーンを隔てた「鑑賞者」は、彼女を生かすと同時に、本来の彼女を見放した存在でもある。
本作に登場する3番目の配偶者・シドニーや、5番目の配偶者となるミッキーは、いずれも興行の場で働く人物だ。2番目の配偶者である映画監督のヴィンセント・ミネリを含め、ジュディは彼女が映画や舞台に立つバックアップを行う「同業者」をパートナーとしてきた。
彼女にとって、こうした同業者たちは、スターとしての自分を敬愛し、肯定する存在である一方で、ある面では、デビュー当時のMGMスタッフ同様に、「パトリシア・ガム」を傷めつけて「ジュディ・ガーランド」を求め、自分を商売のツールとしてみなす存在でもある。
作中で描かれるミッキーとの不和をはじめ、ジュディがパートナー達を信頼しきれないのは、そうした構図が背景にあると考えられる。
また、映画の画面越しに彼女をまなざし、姿の見えない「鑑賞者」も、ジュディにとっては「同業者」同様に脅威であるといえる。
冒頭をはじめとする、子役時代のジュディを描くシーンや、ロンドン公演での最初のステージシーン“By Myself”では、ジュディが強いまなざしでカメラを凝視するショットが挟まれる。これは、彼女を消費し、客体化してきた鑑賞者に対しての視線といえるのではないだろうか。
ジュディは、生身の人間でありながら、身近な人々からこそ、虚像であることを求められ続けてきた人物であるといえる。映画という分野で活動している限り、どれほど作品がヒットしても鑑賞者の姿は見えず、彼女は孤独であり続ける。
そんな彼女は、舞台に活動の場を移したことで、彼女が心身を賭してつくりだした「ジュディ・ガーランド」を愛し、直接コミュニケーションをとる「生身のファン」に救いを見出す。
本作では、ロンドン公演中に、ジュディがダンとスタンというふたりのファンとともに食事をとり、語り合うシーンが描かれる。
ダンとスタンはゲイカップルであり、スタンは同性愛を理由に収監されていたこともある。「本来の自分」が差別・偏見に晒され、その指向を内に秘める(クローゼット)ことをせざるを得なかった時代に、父親や自身のセクシュアリティから、マイノリティを肯定する著名人であったジュディは広く支持を集めていた。
冒頭のメイヤーとの会話、序盤のローナとジョーイとのシーンに見られるように、ジュディは「クローゼットに閉じこもる」、すなわち人目に自己を晒さず、落ち着いた生活を送ることを選ばなかった人物である。
そのために身を切るような苦しみを味わう一方で、彼女がクローゼットから出て人前で歌い続けたことは、確実に人々を鼓舞し、勇気づけた。
それを実感することは、ジュディにとって自己への肯定であり、救いである。だからこそ彼女はダンとスタンと会った夜は眠りにつける。(その眠りは「同業者」であるミッキーに中断させられるが)
かつて抱いたドロシーへの憧れと体調への気遣いを口にする医者もまた、ジュディと距離があるからこそ、利益を度外視して彼女をいたわることのできる存在といえる。
ジュディは、公演中にも体調を悪化させ、ステージでうまく歌えずに観客の野次に反抗し、その行為が問題視されたことでミッキーとの不和を招き、ついには契約途中で解雇されることとなる。
解雇後、ロンドンでのマネージャーを務めるロザリンと、バンドマスターであるバートは、ジュディにケーキを振る舞う。
このふたりは、「同業者」ではあるものの、ジュディよりも年齢が下であり、スターとしてのジュディを敬愛してカムバックを支える、「ファン」としての側面を持つ存在である。
MGMでは商業上の計算のもとにケーキを用意され、しかもそれを食べることを許されなかったジュディが、彼女自身のためのケーキを贈られることもまた、人前で歌い続けてきた彼女が報われた出来事といえる。
しかし、長年の食事制限が身体に染み付いたジュディは、ケーキを喜ぶものの、それを食べることは難しくなっていた。
前述した通り、ジュディはステージから離れ、落ち着いた生活を送ることを、最終的には自ら選ばなかった人物である。
子役時代の同僚であり、役柄を超えた信頼関係のあったミッキー・ルーニーが、仕事の後にジュディをプライベートでの食事に誘った際、彼女は「ステージを見ていたいから」といって断る。
個人的には、心身の自由を奪われ、スターであることを強いられる環境がジュディを洗脳した結果であるようにみえ、肯定的には捉えられなかったが、それでも彼女はステージの輝きに惹かれ、「ジュディ・ガーランド」でいることを選び続けた。
解雇後に、彼女を尊重する人々によって送り出されたステージで、ジュディは"Over The Rainbow"を歌うが、現実に望みが叶わず、肉体的な限界の近い彼女は、「いつか夢は叶う」と語るこの曲を歌うことができなくなる。
しかし、ダンとスタンをはじめ、会場に居合わせたファンが曲を歌い継いでいく。
ジュディがその身を犠牲にしながら歌った理想を、夢や幻で終わらせず、ファンが彼女を覚え、彼女の曲を歌い続けることで現実のものとしていく、という展開は、ステージのジュディと舞台裏のジュディをともに肯定・尊重し、その功績を讃えるものであったと思う。
ジュディを演じるレネー・ゼルウィガーの、あどけなさや傷つきやすさを言動に滲ませる演技は圧巻だった。
また、個人的には「本来の自分」を消費され否定されるスターという点で、パリス・ヒルトンやブリトニー・スピアーズといったその後の時代の著名人とも通ずる点が多いと感じた。
ジュディの場合は、彼女を世に送り出す側だったMGMが与えた影響がかなり大きいとは思うが、受け手側としても、著名人が生身の人間であることを踏まえ、自分の消費行動について問い直すことが必要だと痛感した作品だった。
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