感想:映画『スイス・アーミー・マン』 消費社会の創世記
アメリカ合衆国 2016年公開(日本2017年公開)
遭難して無人島にたどり着いた青年ハンクは、漂流してきた死体と出会う。何かと役に立つ「彼」とともに、ハンクが故郷に帰るまでの旅を描く。
本作は、死体として「モノ」になった人間が、「モノ」として人格を持つという展開だ。
死体メニーはおなら(ガス噴出)によりジェット推進が可能、限界まで水を体内に貯める貯水タンクの役割もできる、など、死んでいるがゆえに人間の機能を先鋭化した「道具」である。
ハンクとの旅を通して、メニーは喋り、思考することができるようになる。だが、生前の記憶や知識はなく、初めて世界に触れる「モノ」としての意識を持つため、ハンクが人間の世界について色々と教えることになる。
この講義を含んだハンクとメニーの森での生活が視覚的にも内容的にもとても楽しく、メニーの素朴な疑問を通して「常識」を問い直す側面もある。
ハンクは社会の構造や成り立ちを説明するために、山に捨てられていたゴミや木々で人形やさまざまな模型をつくる。スマホの待受にしていた自分の想い人の写真にメニーが興味を示したため、恋人の時間を再現しようと、バスや映画館、パーティー会場も自作。ハンク自身がかつらをかぶり、「サラ」となってメニーとデートする。
お菓子の袋や空き缶などのゴミが、組み合わされて新たな意味を持つ描写は、コピーの溢れる消費社会でも創造は可能であると示しているように思う。
冒頭でハンクが助けを求めてメッセージを書いて流すゴミに徐々に小細工がなされ、新しい形質・意味を持っていく様子も面白かった。
チーズパフをきっかけに過去を思い出す、とハンクが語るくだりからは、それぞれの経験が消費行動に関わることで、大量生産品が「オリジナル」になっていくという、ポストフォーディズム的な構造がうかがえる。
人間自身も、大量に生産され、金を発生させる装置として価値をつけられる生き物で、死んで人格をなくしてしまえばモノと同じといえる。
その意味でメニーは「モノ」だが、ハンクに動かされることで様々な機能を発揮し、「モノ」であるが故に縛りから解き放たれ、生き生きとしてさえいる。(この辺りはアニメーションにおける動かされるものの在り方にも通ずると思った)
「役立たず」に見えるもの、あるいは社会的に「恥ずかしい」とされるものを再構成し、新たな価値を見出していく作品だった。
グラビア誌を見ながらハンクがメニーに性教育をする辺りではステレオタイプな恋愛観が説かれるが、彼らは次第に互いに愛し合うようになっていく。無機物にも生命を与えることのできるふたりの世界において、生殖を前提としたヘテロセクシャルの考え方は意味を持たず、その愛も、「友情」「恋愛感情」「性欲」と定義づける必要もないのではと思った。
自死を考えるほどの孤独を抱えていたハンクは、メニーとのコミュニケーションや自作を通じて癒されていくが、これも、モノが生み出す創造の力を示すと同時に、たとえ社会的に価値づけられたパートナーがいなくても、孤独は解消しうることの表現のように感じる。
ハンクとメニーが絆を深め、新たな機能と技術が次々に登場し、遭難しているとは思えないほど生活が充実していくシークエンスは喜びに満ちていた。それだけに、最後にその痕跡が「常識」に照らし出されてしまうのはシビアだと感じた。
すべてが孤独に苛まれたハンクの妄想だったという流れでも形にはなったと思うが、メニーが目覚めるところが優しかった。
ハンクのとにかく冴えなくて情けない良い人という人物像が好きだった。エンドロールの後の彼に少しでも良い未来があるといいと思う。