感想:映画『魔女がいっぱい』 彼女達はなぜ"魔女"なのか


【製作:アメリカ合衆国 2020年公開】

舞台は1968年のアラバマ州。自動車事故で両親を失った主人公(ヒーローボーイ)は、祖母に引き取られる。
当初は塞ぎ込んでいた主人公だが、祖母の働きかけにより、徐々に元気を取り戻していく。彼女が購入してきたネズミ・デイジーも加わり、新生活も軌道に乗り始めたある日、主人公は食料品店で、蛇を連れた女性からお菓子を食べないかと持ちかけられる。
誘いを断った主人公がそのことを報告すると、祖母は血相を変える。
彼女によれば主人公が出会った女性は「魔女」だという。世界には人間に擬態した魔女が多数潜んでおり、彼女達は大の子ども嫌いで、出会った子どもを動物に変えてしまうというのだ。
幼い頃、友人を鶏に変えられた経験のある祖母は魔女の恐ろしさを説き、ふたりは海辺のリゾートホテルに避難する。
しかし、まさにそのホテルに、ボスである「大魔女」を筆頭とした魔女の一団が訪れていたのだった……。

本作は、ロアルド・ダールによる児童文学を映画化した作品だ。
「日常に潜む"怪異"」というモチーフや、ネズミに変えられた主人公達と大魔女の攻防がスリリングなファンタジーで、3DCGやPOVショットを駆使してつくられた映像は見応えがあった。
しかし、スペクタクルとしての面白さを差し引いても、「子どもが嫌いで"尋常でない"容姿の魔女」を悪役に据えた作品を、批判的な視座を持たずに2020年に映画化する意義は見出せなかった。

人間社会では、規範に則らない人物を「魔女」と規定することで、迫害対象としての正当性を与える行為が長く行われてきた。「魔女狩り」はその代表例だ。
本作における魔女の特徴である「子ども嫌い」「化粧が濃く、派手な格好をしている」は、「女性なら子どもが好きであるべき」「慎ましい装いであるべき」という伝統的な規範の裏返しである。
支配的な宗教や社会制度に都合の良いこうした規範は、近代以降、女性の権利拡大と社会進出に伴って批判されてきた。
この流れに応じ、エンターテインメントでも「魔女」概念の脱構築がなされており、日本における「魔法少女」作品群もそうした系譜に位置付けることができる。また、かつては野心的な女性や「継母」をヴィランとして画一的に描いていたディズニーも、『マレフィセント』(2014)や『クルエラ』(2021年)といった、魔女の立場から既存作品を捉え直す作品を制作している。

この文脈を踏まえると、古典的な「魔女」像を2021年にそのまま再生産する本作は、女性や"普通でない"とされる人々へのまなざしに対する問題意識を欠いているといえる。
本作が内包するバイアスは他にもあり、魔女の「手足の指が5本ではない」「頭髪がないため鬘を被っており、蒸れるために頭皮が荒れている」といった特徴を「醜い」ものとして示すのは、現実でそういった身体的な特徴を持つ人々に対する偏見を強化するものだ(前者については抗議も受けている)

女性や特定の身体的特徴に対する差別が過去にあったことそのものは記憶されるべきだし、原作の『魔女がいっぱい』はそうした価値観を含みながらも評価された文学作品であり、その内容まで書き換える必要はないと考える。
ただ、それは「現在ではこの価値観は批判されている」という注釈とともに、制作時代からの社会的な文脈の変遷を明示した上で行われることが望ましい。また、本作は「魔女」の設定をそのままに映像化し、新作として発表しているため、現代社会に向けた作品としての意義も問われることになる。
とりわけ子どもの鑑賞が想定される本作において、ステレオタイプを無批判に剥き出しにすることは、子どもの人間観や社会観にそうした偏見を内在させることにつながる。
以上のことから、本作は2020年に世に出す映画としてふさわしくない作品だったと思う。

ネズミに変身させられた主人公達が元の姿に戻らず、ネズミとしての生をそれなりに謳歌する展開や、秘薬を手にした彼らが世界中の魔女をネズミに変えるべく、プロパガンダムービーを作って子どもを唆すという結末には作品内の善悪の構図を相対化する効果もあるとは思うのだが、それだけでは本作の基盤となっている根強いバイアスを覆しているとはいえないと感じる。

本作は物語の中心にいる主人公と祖母がアフリカ系であり、当初は人種を理由にリゾートホテルへの宿泊に難色を示され、大魔女をだし抜いた後は彼女の蓄えていたお金をホテルのアフリカ系スタッフに分け与える、という描写がある。
しかし、魔女の描写における差別構造への無頓着さを見ると、こうした脚色は「多様性」への形式的な目配せの域を出ないものに感じられた(魔女達が児童福祉の慈善団体を装っている点からは社会運動へのシニカルな目線も窺え、気になった)

監督ロバート・ゼメキスのフィルモグラフィーでいえば、アフリカ系の人物が市長になる社会を描く一方で、チャック・ベリーのギターリフを白人にインスパイアされたものに「書き換えた」『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985)からあまり変化がみられないといえる。多くの人をターゲットにする娯楽作のクリエイターこそ時代の価値観には鋭敏であるべきだし、それをいかに作品に落とし込むかが腕の見せ所だと思っているので、ハリウッド有数のベテラン監督の見識が不十分なのは残念だった。

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