感想:映画『ベイビー・ドライバー』 "乗り換える"強さ
【製作:アメリカ合衆国 2017年公開】
舞台は現代の米国。「ベイビー」と称されるある青年は、類稀な自動車運転の才能を持ち、「ドク」という男性に雇われる形で、銀行強盗からの逃亡を請け負う。常にイヤホンで音楽を聴きながら運転し、巧みに追っ手をかわす彼は、チームを組んだ他のギャングに訝られながらも、高い評価を得ていた。
過去にドクに負わせた損害を返済し、犯罪に加担する必要がなくなったベイビー。同じ頃、カフェの従業員であるデボラに惹かれた彼は、他者を傷つけることなく稼いだお金で、彼女とドライブをすることを夢見る。
しかし、ベイビーの才能と技術を手離そうとしないドクにより、彼は半ば脅される形で強盗の仕事に再び参加することになる。
自身の手で他者を傷つけることを拒み、避けながらも、否応なくギャングの世界に引きずり込まれていくベイビー。
果たして、彼の行方は……
本作は、カーアクションや銃撃戦などのスペクタクルに富む一方で、ギャング映画の典型である「悪事に陶酔し、引き込まれていく」といった破滅志向から、主人公が間一髪で逃れる様子を描く作品である。この、「破滅から間一髪で逃れる」という全体の筋立てが、ベイビーの滑らかな運転技術と重ねられている点が巧みだと感じた。
ベイビーの行動で印象的だったのは、彼が「相棒」のような自動車や一曲を持たず、状況に応じて次々とそれらを乗り換えていくことだった。
彼は自動車や音楽を「ツール」として捉え、それらとその身を一体化させることがない。ベイビーが運転するシーンにおいて、彼の視界から世界を捉えたPOVショットはほぼなかった(反対に、明確にベイビーの視点からフロントガラスの向こうが見えるのは、幼い頃に彼が両親を亡くした自動車事故のシーンである)
3DCGのシューティングゲーム等がそうであるように、行動の主体と鑑賞者の視界を同一化させるPOVショットは、作品世界への没入・耽溺を促すものである。それを避けることは、ベイビーが運転を特別なスキルとして持ちながらも、それらに溺れてはいないことを象徴しているように捉えられた。
自動車をはじめ、身の回りの器物を楽器のように叩いてリズムやメロディをつくること、周囲の人々の会話の断片を録音してサンプリングし、楽曲をつくることも、同様に、ベイビーが「行為に溺れない」人間であることを象徴しているように感じた。
モノを道具として使うためには、対象と距離をとる必要がある。自分を取り巻く言葉を文脈から切り離し、他の音と組み合わせて新たな文脈を作り上げるベイビーは、音楽に「乗って」いるが「乗せられて」はいない。作中2回目の強盗で、犯行の流れが計画から離れかけると、彼は曲を巻き戻して元の流れを取り戻そうとする。
彼は、自分を引きずり込もうとするギャングの世界、気分を昂揚させる音楽から無理やり身を引き剥がそうとはせず、身を預けてみせながら、スレスレのタイミングでそれらを「乗りこなす」。この危うさが、作品にスリリングな効果を与えていると感じた。
冒頭に書いたように、この作品は、ベイビーがギャングの世界に進まないことが筋立ての特徴であるといえる。
内的・外的の様々な要因によって犯罪とされる行為を行い、逃げ延びるためにさらに犯罪をし、それらが連鎖してスパイラルに陥る、という構図は、現実・フィクションを問わずよくみられるものである。作中でベイビーとチームを組むギャング達はまさにそうした背景を持つ。また、バディとダーリンの参照元としても言及される『俺たちに明日はない』のボニーとクライドもまた、この連鎖の末に、追っ手の執行官に自動車ごと蜂の巣にされるという破滅的な死を迎えた。
多くの犯罪に加担して逃亡を図るベイビーと、彼とともに逃げる決意をするデボラ(ボニーと同じくウェイトレスを仕事とする)もまた、ボニーとクライドになりかける。
しかし、ベイビーは「人を傷つけない」という信条のもと、どれほどチームメイトがやすやすと銃器を使い、障壁となる人物を殺そうとも、頑なに盗みや殺人を働かない。
ドクはベイビーのスキルを評価していることに加え、自身が犯罪に手を染め始めた頃の初々しさを彼に重ねて、逃亡の背中を押すが、彼はそれにも乗らない。
終盤の郵便局強盗を通じてギャング達が次々に命を落とす様子は、ベイビーが自身を犯罪の連鎖へと誘う要素を次々と断ち切っていく様子とパラレルであるといえる。
破壊・暴力への欲求(ベイビーとは元来縁遠い)を象徴するバッツが最初に姿を消し、自身の才能や技術で富と名声を獲ようとする野心と重ねられるドクが続いていなくなる。
最後に残るのは、否応なしに犯罪の世界に身を投じて逃亡を続け、パートナーのダーリンとの関係を生きる拠り所とするバディである。
進んで犯罪を働いている訳ではなく、デボラへの恋愛感情を原動力とするベイビーにとって、バディは最も似た境遇にいる人間であり、ある面では自身の未来の姿であるともいえる。(バディはロックバンドQUEENの曲を好むが、彼はベイビーとは違い、それをテーマソングとして、音楽に"乗せられている"といえ、これも似て非なる点といえると思う)
だからこそ、ダーリンの死を悲しむバディは何度致命的な攻撃を受けてもしぶとく生き、復讐を果たそうとする。デボラの手を借り、愛のために破滅に向かう姿勢を断ち切ったベイビーは、彼とともに逃げようとするデボラを止め、自らの手で車のエンジンを切り、音楽を止め、警察に出頭する。
ギャング映画のスリリングさを踏襲し、音楽に身体や動きを同期することの快楽を演出しながらも、他者を巻き込む刹那主義に傾倒せず、地道に罪を償うことを選ぶ結末は、アップデートされたものだと感じた。
作中では、「犯人は紫色の車で逃亡中……」といったような、特定の自動車と実行犯を重ねるテレビやラジオのアナウンスが差し挟まれるものの、実際にはその放送がかかるときにはベイビーは他の車に乗り換わっており、犯罪者として名指されることがない(「実行犯」と実際の自分自身は一致しない)シーンがたびたびある。
ベイビーの「様々な自動車を乗り換えるドライバー」としての確固とした姿勢と、その積み重ねが、咄嗟の場面で人を傷つけないという選択につながったのではないだろうか。
「音楽に酔わない」という点も、聴力に障がいのあるジョセフとの生活によって、多面的に音を捉えてきたことが背景にあるように思う。また、ベイビーがカセットテープやiPodなど、様々なメディアで音楽にアクセスし、自宅ではテレビのチャンネルを次々にかえてその台詞を引用するなど、「ザッピング」や「断片化-再構成」の描写が多いのが印象的だった。
本作で参照されるような過去の映画の時代と比べてアクセスできる作品や選択肢が多いからこそ、「この道しかない」と手綱を手放すのではなく、それらを組み合わせて新たな選択肢をつくることができたのではないかとも考える。
デボラがハンドルを握ってベイビーが助手席に座るシーンは、ベイビーの抱える過去や罪を彼女がともに持つという決意の象徴であり、個人的には心底「良かったね……」と思った。
そのデボラを巻き込むことを避けて出頭するベイビーの誠実さも印象的であり、疾走感のある展開と前向きな結末が相まって、後味の良い映画だったと感じた。