感想:映画『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』 彼が壊さなかったもの
【製作:アメリカ合衆国 2016年公開(日本公開:2017年)】
主人公デイヴィスは、交通事故により、目の前で妻ジュリアを亡くすが、彼女の死を実感できない。
最初は以前と変わらない生活を送っていた彼だが、次第に機械の不具合が異様に気になり始め、身の回りのものを次々に壊すようになる。
破壊行動を通じ、デイヴィスがジュリアの死を悲しめるようになるまでを描いた物語。
本作では、人が身近な人物の死を受け入れるまでのプロセスが描かれる。
デイヴィスの表情や言葉に感情が表れない分、その葛藤は行動に反映される。
作中で大きく取り扱われるのは「破壊」で、身の回りの電化製品を皮切りに、デイヴィスは力尽くの破壊と丁寧な分解を交えてあらゆるものをバラバラにしていく。
序盤に「一度分解しなければ問題のある箇所がわからず、修理できない」という言葉があり、最終的に自宅を壊すことがデイヴィスの回復の契機になるように、本作における破壊は再生のためのものと位置づけられる。
一方、デイヴィスは無理やり剥がす、割るといった仕方でものを壊すため、壊したものそのものを元通りに組み立てるのは不可能である。
彼が最初に壊すのは、生前にジュリアが水漏れしているので直すよう頼んでいた冷蔵庫であり、その後も彼は壊れかけたものを中心に壊していき、最終的に「結婚生活を破壊する」と称して自宅を破壊する。
バラバラになった残骸、部品を見ることで、時間は戻せない、不可逆であることを具体化しようとしていると捉えた。
また、こうした不可逆性の確認の一方で、デイヴィスは時間の流れに身を任せることを拒んでもいる。破壊をはじめとする彼の一連の行動は、通勤電車の非常停止レバーを突然引いたことから始まる。
デイヴィスがヘッドフォンとサングラスで外界の音や景色を遮断したり、大音量で音楽を聴いて往来の真ん中で踊り続けるといった描写もある。
ポータブルプレイヤーで再生する音楽は「鳴り止まず流れ続ける」ことに特徴がある。ループする音楽によって外界を遮断することで、現実の時間とは異なる位置に自分を置こうとしているのではないか。
彼はジュリアのいない時間が淡々と経過していくのをせき止めた上で、彼女がいないことを確認することで、その存在を忘れず、不在を身に刻み付ける。
また、デイヴィスは機械や「壊れかけのもの」を片っ端から壊していくが、最後に古いメリーゴーラウンドを修繕し、浜辺に設置する。
これは、壊し分解することで彼自身とジュリア(の記憶)を分離した結果だと考える。
家(室内)が住人の内面を象徴する描写はよくみられる。デイヴィスはジュリアが亡くなるまで自分の家のことを把握しておらず、冷蔵庫の水漏れに2週間気づかなかったほどである。家具や家電を自分の所有物として認識しているかすらも怪しいことは、自身の感情を把握できていない彼の状態とリンクする。
デイヴィスは自分の肉体も傷つけるが、そのたびに彼は少しずつ回復していく。彼は分解によって自己を構成するものを認識するのだ。
(自身がゲイであるか判別のつかないクリスが、鏡に映った自分の顔を的に発砲しようとする場面も、解体によって自分を知ろうとする試みといえる)
また、分解を通して、曖昧に内面化していた妻の姿が自己と分離され、明確な輪郭を持った他者として浮かび上がる。
デイヴィスはジュリアの化粧台を壊すことで、彼女が実は不倫相手との子どもを中絶していたと知る。これは彼にとっては不都合な事柄だが、自分の関与しない個としてのジュリアを認識することは、彼女を自己から分離し、不在を確かめる上で重要な役割を果たす。
メリーゴーラウンドや浜辺はデイヴィスとジュリアがともに過ごした場所であると同時に、彼の自宅=内面の外部にあるものだ。同じ場所を回り続ける遊具はジュリアという人間の完結を意味し、同時に彼女の姿を留めておく効果もある。
デイヴィスはジュリアを客体化することでその死を受け入れることができたと捉えられる。
「亡くなった人は遺された人の中で生き続ける」というような表現はよくみられるが、本作においては自分の中の死者をある種の異物として認識し、取り除くことで気持ちに整理をつける点が興味深かった。
また、かなり過激ではあるものの一連の流れはセラピーの過程として筋の通ったものであり、精神的な落ち込みからの回復を丹念に描いている上でも特徴的な作品だと思う。
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