感想:映画『ティム・バートンのコープスブライド』ふたつの「形式」からの解放
【製作:アメリカ合衆国・イギリス 2005年公開】
結婚式を控えるビクターは、誓いの言葉や所作が身についておらず、親や牧師から叱責される。
町外れの森で練習する彼の言葉を、地中に埋められていた死者のエミリーは、自分への求婚だと勘違いする。
エミリーの花婿として死者の世界に迎え入れられたビクター。婚約者のビクトリアを待たせている彼は、その状況から逃れようとするが….…
ストップモーション(コマ撮り)とVFXを組み合わせた人形アニメーション。
未婚のまま亡くなった女性と生きた男性が結婚する図式、作中の結婚にまつわる諸描写からは、婚姻制度への懐疑が見てとれる。
また、生者の世界と死者の世界の対照的な構図や、随所にあるディズニーを意識した描写は、アニメーションというメディアの特質を生かしたものだった。
本作の主人公ビクターと婚約者ビクトリアの結婚は彼らの親によって決められたものである。
これはいわゆる「政略結婚」で、成り上がりの魚屋と没落貴族である両家は、それぞれ相手の家柄と資産を目当てにしている。家のステータスや面子の維持・向上を志向するため、親達は段階を踏むことに固執する。
ここでは婚姻制度の、「イエ」を保ち、資産の所在を明らかにするための手段としての側面が強調される。同じく政略結婚によって婚姻関係となったビクトリアの両親のあいだには愛がないという台詞もある。
舞台は19世紀ヨーロッパであり、現在よりも身分制が色濃かった時代ではあるが、自由恋愛がより普及した現在においても、婚姻制度がカップルの関係の内実を担保するものではないことは変わらない。むしろ、家族の在り方の多様性が認識される中で、その意義はより揺らいでいるといえる。
この婚姻制度の相対化は、死者メアリーと生者ビクターの結婚にまつわる描写からも窺える。
現実にも未婚の故人と存命の異性を結婚させる文化は存在し、「冥婚」「亡霊婚」などと呼ばれる。男性がイエを継ぐ社会において、跡継ぎがいないまま男性が亡くなるとそのイエや資産は主を失うし、女性が結婚せず亡くなればその人を祀る者はいなくなる。
このため、「死者の配偶者」が別の生者との間につくった子どもが死者の「跡継ぎ」になる、というのが本制度だが、死者の性別に限らず「イエ」制度を前提としたものであり、形式的である。
一方、本作において名前を問われたメアリーはファーストネームのみを告げる。ビクターとビクトリアに苗字があるのに対し、メアリーには設定されていない。
ここから、メアリーは純粋に自分を尊重するパートナーとしてビクターを求めていることがわかる。メアリーの死因は駆け落ちをしたものの、実は彼女の財産を狙っていた婚約者に殺されるというものだ。
命を落とし、苗字も失って初めて形式に縛られない愛を求められるメアリーの姿もまた、婚姻制度への皮肉と捉えうる。
以上のように、本作は結婚を美化せず、その負の側面を示す。
一方で、婚姻制度そのものを否定するといったラディカルな姿勢は見せず、ビクターとビクトリアが信頼を築き、寄り添う姿を結末に置くことで、「結婚がすべてではないが、愛し合うことは素晴らしい」といった着地の方法をとっている。ここからは、結婚の形骸化を把握しつつその制度に期待も持っているという考え方が見て取れる(近年話題になったゼクシィの広告も思い出した)
アニメーションとしては、形式的で味気ない現実と色とりどりの非現実(=死者の世界)という対立構造が印象的だった。
灰色の画面や、同じ動きを反復し続ける人々を含め、現実世界は形式主義的であり、のびのびとした自由や意思が欠如していると示される。一方、色とりどりにライトアップされ、骸骨や虫が楽しげに歌い踊る死者の世界は生者の世界よりも「生き生きしている」。
モノに動きを与えることで成り立つアニメーションは有機物・無機物を問わない万物に同様に命を与えることができる。
このため、アニメーションは物理法則や資本主義、大量生産といった近現代を支配するパラダイムへのアンチテーゼになりうる芸術と捉えられた。戦前、ソビエト連邦の映画監督エイゼンシュテインはディズニー作品にその役割を期待していた。
(実際にはディズニーはその後、作品の内容やディズニーランドをはじめとするメディアミックスなど様々な面で資本主義を象徴する存在になり、そうした機能とは乖離していく)
上記のようなアニメーションのオルタナティブな側面を本作は踏襲しているといえ、ディズニーを意識した描写も多く登場する。
踊る骸骨というモチーフは、1929年にディズニーが制作した"The Skelton Dance"を彷彿とさせる。わかりやすい記号性に乏しくとも、感情や躍動感、生命は表情可能であると示す本作はアニメーションの性質に回帰していると感じた。
白紙の本を開くショットで始まる冒頭や、婚姻制度と幸福の連関への懐疑も、ディズニープリンセス初期3作品を意識したものと捉えられる。
紙に描かれた蝶よりも、外の世界を自由に羽ばたき回る蝶を美しいものとして描く本作は、アニメーションに内在する形式からの解放に焦点を当てた作品といえる。
こうした性質と婚姻制度への懐疑や映像効果などの現代的な要素が組み合わされており、多角的で見応えのある作品だった。
アニメーション表現を度外視しても、形のない霊魂や血肉、生前のイメージではなく、肉体の根幹を成す骨に思念が宿る点は面白かった。
また、死者の世界における虫の位置づけも興味深かった。モチーフとしての虫についてより調べてみたいと思う。
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