【回想記】父が消えた…⑥
8月、炎天下のプレハブ小屋(職場)の横に車を止めて、同僚に挨拶を済ませ、父がいた場所にお花を手向けました。
父が落ちていたであろう場所は、事前に警察に面談を要請して、現場検証の写真を目に焼き付けてきたのですぐに分かりました。
(こんな所で…)
言葉にならない思いがずっしりのしかかりました。
悲しさと悔しさとやるせなさでグチャグチャになって、心も顔も固まっているのが分かりました。
数分後、専務から同僚に電話が入りました。
私と長男は、わざと外に出て現場検証を始めました。
約1時間、広大な敷地の中、父が歩いたであろう場所から何かを見つけたい一心で歩きました。
本当に事件性はなかったのか?
雑草だらけの溝に足を滑らせて落ちたのではないのか?
いつまでたっても、何度思い返しても、この目で現場を見ても、どうしても同じ思いが廻るのです。
一通り見て、プレハブで帰り支度をしていると、同僚が言いました。
「花は持って帰って、と専務が言うてたわ。明日引き取りにくるなら別やけど、処分に困るからて。」
………。
私とNさんは顔を見合わせ、お花を持ち帰りました。
車に乗って現場をあとにすると、Nさんが言いました。
「あの同僚、専務から電話で『窓を開けていれば海風が入って涼しいから、いつも窓を開けて仕事をするように言われている』とアピールするよう指示されたみたいやな。」
それでやけに『涼しい』を連発していたのか。
炎天下で40℃を超えるプレハブ小屋が職場となれば、色々な問題が発生する。
人間の命を物のように扱う会社。
電話をかけてくるくらいなら、顔を見せるのが筋ではないでしょうか。
ここに至るまでに、軽度のうつ症状が出ながら、警察と監察医にも不審感があったので、動かない体を無理矢理動かし、とにかく面談してその当時の様子を聞くため、警察に連絡しました。
警察に行くと、父の部屋を家宅捜索した警察官と、部長という人がいました。
現場の写真を見ることはできても、それ以上の許可は出なかったので、根掘り葉掘り話を聞きました。
本当は、現場検証をした警察官の話を聞きたかったんです。というか、聞けると思ってました。
多分、現場検証は、若くて経験の浅い下っ端の仕事になっていて、一言申し上げたい私のような者に突っ込まれた時、うまく話しが返せないから会わせるわけにいかない。
私の勝手な見解ですが、合ってると思います。
監察医の診断について話を聞くと、『管轄外のことなのでよく分からないんよ。』と言われました。
私は、『監察医って非常勤のバイトでしょ?あの日運ばれた遺体が多かったとおっしゃってましたよね?虚血性心不全の診断、お話を聞くまで納得はできないですよ。』と返しました。
どうしようもないので監察医の連絡先を教えもらったけど、女が連絡するとなめられるということが、専務とのやり取りで分かったので、弟に監察医への連絡を頼みました。
弟が電話をかけると、「警察内部のことなのでこれ以上はお伝えできません。この先は、監察医事務所に連絡してください」
こういうシステムになっているらしい…
誰が、本当のことを話すのでしょう?
監察医制度は、終戦直後、感染症や行き倒れで亡くなる人が多かった時代に、公衆衛生上の目的で始まったそうです。
ずいぶん前から事件性の見逃しが問題になっていて、制度の撤廃、監察医の常勤化、現況のまま存続、これらの案が繰り返し論議されています。
高齢化、孤独、認知症、病気… 不審死が増加している日本…
監察医制度が残っているのは、事実上、東京23区、神戸市、大阪市のみだそうです。
法医学では、犯罪性が疑われている遺体に対する『司法解剖』と、犯罪性はないけど、死因が分からない遺体に対する『行政解剖』があります。
日本では、「不要な解剖をしない」という考え方が主流にあるから解剖しなかったのか、どこからどうみても100%虚血性心不全だったのか(これはない)、その日運ばれてきた遺体が多かったから監察医が早くさばきたかったのか、結局、父の死因に納得がいかないまま葬儀を終えて、早2年。
この話は、明日の命日まで書きます。