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「時間をはずした日」の回向

チベット仏教やボン教の法話に参加すると、最後に必ず回向の祈りを唱える機会が設けられる。「回向(えこう)」とは、「自ら修めた善行の功徳が、他に巡り及ぶのを期すること」を意味するので、法話に参加することで積まれた功徳が、他の存在に巡るよう祈る訳だ。

その意味については理解していたつもりだったが、ボン教の修行者で、経典の邦訳やゾクチェン瞑想の普及にも尽力されている友人・箱寺孝彦さんの『ゾクチェン瞑想マニュアル』の中で、「回向すれば積んだ功徳は失われない」というニュアンスの文章を目にした時、私は大きな衝撃を受けた。以下、該当箇所を引用してみたい。

"どうして、せっかく積んだ功徳を他の生きもののために捧げなければならないのでしょうか?それはいくら瞑想や修行のなかで功徳を積んだとしても、日常生活に戻った瞬間、煩悩に襲われると、その功徳が破壊されてしまうからです。あたなたが積んだ功徳を他の生きものに捧げてしまえば、その功徳を破壊から守ることができます。また、あなたが捧げた功徳により、他の生きものの苦しみや悲しみを癒してあげる効果もあるのです。”

この表現から回向に対する新たな視点を得た私は、「何と素晴らしい考え方だろう!」と心から感動した。回向は、単に困っている存在に功徳を巡らせるだけでなく、自らが積んだ功徳を最も有効な形で活用するための手続きでもあるのだ、という理解を得たからだ。

実は、同じ事がナムカイ・ノルブ・リンポチェによるご著書『叡智の鏡 チベット密教・ゾクチェン入門』にも書かれていた事にごく最近気づいた。せっかくなので、こちらからも引用してみよう。

”ひとたび、功徳を回向すれば、それは、つねにより大きなものになっていく。決して破壊されることはない。ところが、功徳を回向しなければ、たとえば怒りのような強力な煩悩の体験のなかで自覚を失い、散乱し、それによって、何千カルパ(劫)ものあいだ積んできた功徳のすべてを、一瞬の怒りによって破壊することもありうるのだ。”

私はこれらの「回向」に対する視点から、2つのことを思い浮かべた。一つは、ミヒャエル・エンデが『モモ』を生み出すに当たって着想を得たとされるシルビオ・ゲゼルによる「老化するお金」「時とともに減価するお金」について、もう一つは、私が『13の月の暦』を通じて深く体感してきた「共有」の働きについてだ。

〜本稿は2023年11月21日配信のメルマガ「驚きは魂のごちそう」Vol.78に掲載された【循環する徳と富〜回向と共有(シェア)】をベースに加筆修正したものです〜

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