おっさんと考える記号消費社会@2022/12/7
どうも、おっさんです。
おっさんは、高校時代に国語の現代文の文章の中で何回か読んだくらいで、それ以上のことはよく知らないのですが、記号という考え方は、結構強力だと思っています。
記号というのは、厳密な定義というのは難しいものなのかもしれませんけど、ここで言う記号について、ざっくり言うと「ブランド」が近い認識です。
たとえば、私がある時、パリに旅行に行ったとします。で、帰ってきて、パリがどうだったのか、他の人にあれこれしゃべって自慢話をするとします。ありそうな話ですよね。
でも、もし、他の人に自慢できないとしたら、どうでしょうか?それでも高いお金を払って、時間も使って、時差ボケに耐えながら、パリに行きますか?
で、もし、その質問に対して「いいえ」だったとした場合、あなたにとって、パリっていうのは記号として消費するものである可能性が高いです。
一方、あなたがとんかつ屋でとんかつを食べるとして、それを他の人に自慢できないとしても、それでも食べますか?って聞かれた場合、多くの人は、「はい」って答えると思います。
つまり、とんかつの場合は、とんかつから得られる喜びを直接的に消費してるわけです。しかし、パリの場合は、全部がそうとは言いませんけど、かなりの部分を、他の人と差異化できるとか、他の人にどう見られるからとか、そういう感じで、他者の存在を前提にして、間接的に得てる喜びが多いということなんですよ。
まぁ、人によって、何がとんかつで何がパリなのか、違いはあると思います。
で、パリのような記号を消費する場合に何が問題になるかというと、他人がどう言うかに振り回される、っていうことです。一方で、とんかつのような消費をする場合なら、他の人がどう言おうが関係ないわけです。記号消費が行き過ぎると、他人に依存した不安定な自己が形成されるということです。そこが問題です。
私も高校時代、そういう評論を読んだ時は、まだピンと来てなかったのですが、大学に入って色々な体験をしていくうちに、パリのような消費をするのは虚しく、とんかつのような消費体験で満たされた人生にしていきたいと考えるようになりました。そして、常に、今、自分がやろうとしてることはパリなのか?とんかつなのか?を自問自答するようになりました。また、例外的に、これはパリと同じであるという認識を持ちつつ、たまにはパリのような消費をしなくもないです。ただ、メインはとんかつのようでなくてはいけないというところは堅持しています。
以上。