月の砂漠のかぐや姫 第340話
こちらへの敵意をむき出しにしていて、並の男以上の力を持っている「母を待つ少女」の奇岩と戦うのならともかく、ほっそりとした少女の姿に戻っている由を捕らえるなどとは、冒頓にとっても決して楽しいことではありません。
こんなことは早々に片付けてしまおうと、これ以上羽磋が引き留めてこないことを確認すると、冒頓は由と理亜の方へ視線を戻しました。でも、その次に冒頓が取った行動は、二人の元へと足を進める事でなく、その場に立ち止まったままで、彼には似つかわしくない素っ頓狂な驚きの声を上げる事でした。
「ええっ、ちょっと待てっ! お、おい、どうなってんだっ」
それは、無理もないことでした。由と理亜を除いたすべての者が、驚きの声をあげてしまったのですから。
一体、何があったと言うのでしょうか。
ここに居る男たちの全てを驚かせたのは、由がとった行動でした。それは、誰一人として想像していなかったものだったのでした。
頬がくっつくほどに顔を近づけて話し合っていた理亜の肩をポンと叩くと、由はサッと身を翻して走り出しました。
冒頓が羽磋に話していたように、このまま掴まってしまえば責任を取らされることになるので、どこかへ逃げ出そうとしたのでしょうか。
いいえ、そうではありませんでした。
二人の様子を見守っている男たちに周りを囲まれていたとは言え、ここから逃げ出そうとするのであれば、広場の出口の方や男たちの影が薄いところを目指して走り出すはずです。
それなのに、由が向かったのはむしろその反対で、広場の内側の方でした。
では、あまりにも大きな恐怖に襲われたために、由は行き先も定めないまま走り出してしまったのでしょうか。
いいえ、それも違いました。
去り際に理亜に見せた彼女の顔には、恐れの色など少しも浮かんではいませんでした。それどころか、彼女の顔には、希望と嬉しさが溢れんばかりに現れていたのです。
ですから、由は「とにかくここから逃げ出したい」と言う思いで、闇雲に走り出したのではありません。彼女にははっきりとした目的があったのです。
由が真っすぐに向かった先には、地面に大きな割れ目が口を開けていました。それは、勢いよく噴出した青い水に乗って、理亜と羽磋が地下世界から飛び出してきた割れ目でした。
冒頓を始めとする護衛隊の男たちが、「お、おいっ」と目を大きく見開くだけで、まだ自分の身体に「動けっ、あの娘を止めろ」と命令をする前に、由はその割れ目の縁へ辿り着きました。そして、僅かなためらいも見せずに、走り寄った勢いのままで、真っ暗な割れ目の奥底へと飛び降りてしまったのです。
奇しくも、由が取ったその行動は、遠い昔に彼女の母親が取ったものと同じでした。ただ、母親の場合は、長い旅の末に薬草を手にして戻って来たのに、自分の娘が砂岩の像となっていることを知って、悲しみと絶望のあまりに大地の亀裂の中へ飛び込んだのでした。
「何なんだ・・・・・・、あいつは・・・・・・」
由と理亜が話していた内容は、冒頓のところにまでは届いてはいませんでした。それに、彼は地下から戻ってきた羽磋たちと、まだきちんと話をすることができていませんでした。そのため、追いつめられた由が「捕まるぐらいなら、いっそ」と穴に飛び込んだのだろうとしか、冒頓には考えることができませんでした。でも、亀裂に向かって走る由の表情やそこへ飛び込むときのためらいの無い仕草を思うと、それを考えた自分自身でも、その理由に違和感を持たずにはいられないのでした。
予想もしなかった由の行動を見て、あっけにとられてしまった護衛隊の男たちでしたが、始めに感じた驚きが落ち着いて来ると、先ほどまでピンッと張り詰めていた彼らの気持ちは、一転して解けて緩くなりました。
それは、理由は何にせよ、これで、「母を待つ少女」の奇岩もサバクオオカミの奇岩も、全ていなくなったからでした。「ヤルダンに突然現れて、交易隊や王花の盗賊団を襲っていた敵を取り除く」という彼らの目的は、達成できたのです。
理亜は、由の姿が消えた亀裂の方を見つめながら、静かに立っていました。羽磋を従えながら彼女の元へ足を進める冒頓の歩みも、ゆっくりとしたものになっていました。
近づいて来る冒頓たちの気配に気付くと、理亜は由の去った先を見つめるのを止めて、彼らの方へ振り向きました。
最初に冒頓の顔を見た理亜は、すぐに彼の後ろにいる羽磋の顔に視線を動かしました。
「由にネ、オカアサンのことを言ったヨ。地下にいるって、言った」
理亜の目は、羽磋に対してそう語り掛けていました。
羽磋は彼女の目を見つめ返すと、しっかりと頷き返しました。それには、「うん、わかった。話せてよかったね」という思いが、込められていました。
冒頓とは違って、理亜と共に地下世界を潜り抜けてきた羽磋には、彼女が由に何を話したのかがわかっていました。その結果、由が亀裂に向かって走って行き、そこへ飛び込むとまでは想像できていなかったのですが、いざそうなって見ると、喜びの表情を浮かべながら亀裂の中へ消えた由の気持ちが、彼にも痛いほど伝わって来るのでした。
「お母さん、お母さん、お母さん!」
きっと、由の心の中には、この言葉しか浮かんでいなかったことでしょう。それに、彼女の目には、懐かしい母親の笑顔しか見えていなかったのでしょう。
「どうやって、地下世界へ行こう」なんて、考えを巡らせる余裕などあったはずがありません。「早くお母さんの所に行きたい!」という一心で、勝手に身体が動いたのに違いありません。
地下世界で由と彼女の母親の物語を知るようになった羽磋は、「二人が地下で無事に会えますように」と願いながら、そっと目を閉じるのでした。