月の砂漠のかぐや姫 第335話
「大丈夫ダヨ、もう、大丈夫なんダヨ」
自分と「母を待つ少女」にだけ聞こえるような小さな声で話しかけながら、理亜はまっすぐに足を進めます。理亜の態度には、少しの恐れも見られません。
そのためでしょうか、これだけ危ない状況であっても、周りの男たちの中から彼女を助けようとして飛び出してくる者は現れません。それどころか、「危ない、逃げろっ」という声すらもあがりません。
「や、あ、いやっ! 止めろ!」
理亜を拒絶しようと叫ぶ、「母を待つ少女」の奇岩。
理亜が歩みを止めなければ、勢いよく振り回しているその手で打ち倒すことも、全くいとわないように見えます。
でも、理亜が彼女の手の届くところにまで近づいて来ると、「母を待つ少女」の奇岩はその手を理亜に向けて振るうの止めてしまいました。そして、自分の身体を彼女から守ろうとするかのように、両手でギュッと抱えるようになりました。
羽磋が、冒頓が、そして、護衛隊の男たちが息を殺して見守る中で、ついに理亜は「母を待つ少女」の奇岩の目の前に達しました。
「大丈夫ダヨ、もらっていたものを返すダケ」
理亜は奇岩の顔と思しき所に向けて微笑みかけると、ためらうことなくその前にしゃがみ込みました。
ピリッとした緊張が、この場全体に走りました。
いま、「母を待つ少女」の奇岩がその腕を大きく振りかぶって、理亜の頭の上に打ち下ろせば、容易くその命を奪うことができるでしょうから。
それでも、奇岩は動きませんでした。まるで、その身体の中に相反する二つの意思が存在していて、それぞれが違う命令を身体に下すので動けないとでも言うかのように、細かく身体を震わせながら、理亜のすることを見守っているだけでした。
「母を待つ少女」の奇岩は、理亜が何をしようとしているのかを察し、それを恐れてもいます。でも、それを拒むために、本当に彼女を傷つけることはできないのでした。
奇岩の前にしゃがみ込んだ理亜は、大事そうに自分の胸に押し当てていた皮袋を、目の前にかざしました。
「・・・・・・ぶーん、はんぶん。はんぶーんなの・・・・・・」
自分がどれほど危険な状況にあるのか全く意識していない理亜の口からは、いつも彼女が口ずさんでいた小唄が漏れ出ていました。
「お、おい、止めろ、止めてくれっ!」
「ぶんぶーん。はーんぶーん、はんぶんなの・・・・・・」
「仕返しするんだっ! あたしだけ、あたしだけこんな目に合わせた奴らにっ! 止めろっ!」
「母を待つ少女」の奇岩の叫び声を、理亜は全く意に介しません。
顔の前に高く掲げ持った皮袋をゴビの赤茶けた地面の上にまで降ろすと、その口を閉じていた紐を緩めました。そして、彼女がそっと袋を傾けると、ト、ト、トトッと水が流れ落ちて、「母を待つ少女」の奇岩の足元を濡らすのでした。
皮袋の中から流れ落ちた水は、太陽の光を反射するのでなく、自らが青い光を発していました。その光は、ここで冒頓の護衛隊とサバクオオカミの奇岩の群れが戦っていた際に、何度も地面から噴き出してきた青い水と同じ色でしたが、その輝きはそれらとは比較にならないほどに濃く、そして、深いものでした。それは、この皮袋に入っていた水が、羽磋が地上に戻る寸前に、濃青色の球体下部から滴り落ちるそれを直に取っていたものだったからでした。
皮袋を軽く揺すって、全ての水を地面に注ぎ出したことを確認すると、理亜はゆっくりと立ち上がりました。
そして、「ね、大丈夫だったでしょ?」と囁きながら、さらに「母を待つ少女」の奇岩に近づくと、その砂岩でできた冷たい身体に寄り添い、自分の頬を彼女の頬にそっと当てるのでした。
その時です。
理亜と「母を待つ少女」の奇岩の足元で濃い青色の光を放っていた水が、まるでそこに青い光を放つ星が生まれたとでも言うかのように、強烈な光を周囲に撒き散らし始めたのです。
一瞬の内に、理亜と「母を待つ少女」の奇岩は、地面に注ぎ出された水が発する濃青の光に飲み込まれてしまいました。
それだけではありません。羽磋も、冒頓も、さらには、護衛隊の男たちがいるところも含めたヤルダンのこの一角は全て、この濃青色の光で満たされてしまいました。
太陽が中天を通り過ぎたとは言え、まだヤルダンには日光が降り注いでいたはずです。それなのに、この広場だけには小さな夜が生まれていたのでした。
この小さな夜の中心部は、もちろん、理亜と「母を待つ少女」の奇岩が立っているところでした。そのためでしょうか、満々と水を湛えたオアシスの中を覗き込んでも、その深いところまでは見透すことができないように、周囲で見守っていた男たちからは、二人の姿は見えなくなってしまいました。二人は濃青の夜の中に沈んでしまったのです。
でも、理亜には相手の姿が見えていました。
頭に白い布を巻いた、理亜より少し背の高い女の子。黒色の前髪の下には、切れ長の目が光っていて、理亜を真っすぐに見つめています。その女の子は、赤色の髪を持ちはっきりとした顔立ちをした理亜とは、全く対照的な顔立ちをしていました。
理亜が見ているこの少女こそ、遠い昔に精霊の力により砂岩の像へと変化させられてしまった「由」でした。
「あー、もうっ。どうして、こんなことするんだろうね、あんたは?」
「ふふっ、ごめんネ」
砂岩でできた像の姿をしていた時には、あれほど混乱をし、理亜を激しく拒絶していた由でしたが、この時にはもう諦めがついていたのか、彼女を強く非難するようなことはありませんでした。「仕方がないなぁ」と言う様子で腕を組み、顔をしかめて見せるだけでした。
理亜の方はと言えば、奇岩の姿をした由が激しく威嚇しても、まったく怖がる様子を見せていなかったぐらいです。少女の姿に戻った由に対しては親しみを表に出して、微笑みながら軽く頭を下げるのでした。
やはり、もともと二つだった心を混ぜ合わせ、それを半分にしたものを分け合っている二人ですから、表面上では激しくぶつかり合ったとしても、心の底に通じ合うものがあったに違いないのでした。
「いまのあたしは、あんたの持っていた悲しみや怒りも、たくさん感じてる。あんただって、どうして自分だけがって、怒っていたはずだよ。その怒りも人間や精霊どもにぶつけようって言うのに・・・・・・」
「うん、わかるヨ。だけど・・・・・・」
まだ膨れ面をしている由に、理亜はトコトコと近づいていくと、そのほっそりとした身体をそっと抱きしめました。
そして、彼女にしっかりと届くように、耳元で囁くのでした。
「いたよ。オカアサン、いた。由のオカアサン、地下にいた。それを、伝えたかったノ」