月の砂漠のかぐや姫 第329話
「おいっ、羽磋! 何やってんだ、放せっ!」
「放しません! あの奇岩と戦ってはいけないんですっ」
「はあっ、何言ってんだ、お前っ。お前だって、アイツと戦うためにヤルダンに来たんじゃねぇのかよっ。おら、放せっ」
背中側から腰にしがみ付いている羽磋を引き離そうと、冒頓はその頭をグイグイと押すのですが、羽磋は一向に離れてくれません。それどころか、冒頓の腰に加わる羽磋の腕の力は、増々強くなってくるのでした。
「地下世界」の中で、羽磋は「母を待つ少女」の母親に向かって「娘さんと戦っている冒頓と言う男を自分は知っているから、地上に送ってくれれば戦いを止めさせることができる」と言いはしましたが、実際の所は、その具体的な計画を持ってはいませんでした。せいぜい、羽磋が考えていたことと言えば、「冒頓と『母を待つ少女』の奇岩が戦っていたら、なんとかその間に入って戦いを止め、自分が地下で見聞きしたことを冒頓に説明しよう」というぐらいのものだったので、彼の心の底には「地上に出てからどうすればよいか」という不安も、確かに存在していたのでした。
ところが、実際に地上に戻って見ると、その不安が心の底から浮き上がる余裕が全くないほどに、状況はひっ迫していました。地上に帰った羽磋が最初に目にしたのは、防御の姿勢を取っていない「母を待つ少女」の奇岩に対して、短剣を腰だめにして突進しようとしている冒頓の姿だったのでした。
「あ、駄目だ!」
次の瞬間には、羽磋は反射的に走り出していました。
冒頓を止めないと! 「母を待つ少女」の奇岩を壊させないようにしないと! あれには、理亜の心の半分が入っているんだから!
それは、できるかどうかの算段をしてからの行動ではありません。そのような余裕など、ほんの僅かにも無かったのです。でも、それが功を奏したのでしょうか、羽磋は背後から冒頓の腰に飛びつき、彼を地面に引き倒すことに成功したのでした。
こうなればもう、冒頓に何と言われようと、羽磋は彼の身体を離すわけにはいきません。一度冒頓が立ちあがることを許してしまったら、もう彼が「母を待つ少女」の奇岩を切り崩すのを止める事はできません。それどころか、ひょっとしたらですが、裏切ったと勘違いされて、自分や理亜までもが殺されてしまうかもしれません。
自分が想像していた場面とは全く異なるのですが、なんとかこの体勢のままで冒頓に事情を説明しなければいけないと、羽磋は覚悟を決めたのでした。
「ぼ、冒頓殿っ! き、聞いてください、う、うわっ、わわっ!」
「うるせぇ、くそっ! 放せ、放しやがれ、くそっ!」
でも、冒頓は羽磋の話を聞こうと力を抜くどころか、ますます大きく動いて彼の身体を引き剥がそうとします。
これは、冒頓にしてみれば当然のことです。だって、いままで激しい戦いを繰り広げてきた奇岩の群れと決着をつける、千載一遇の好機が自分の目の前に来ているのですから。
羽磋が何かを必死に伝えようとしているのは、冒頓にもわかっていました。でも、いまは羽磋にかまってはいられないのです。こうしてグズグズとしている間に、「母を待つ少女」の奇岩が元の素早い動きを取り戻したら、また彼女との一騎打ちを一からやり直さなければなりません。それどころか、地面に転がっている自分と羽磋の元へと駆け寄って来て、攻撃して来るかもしれません。そうなれば、如何に冒頓と言えどもこの態勢のままでは、攻撃を受け流すことは難しいのです。
ですから、冒頓の腰に全力でしがみ付いている羽磋は、彼が倒れたときにも手放さなかった短剣で切りつけられても、不思議ではない状況でした。いいえ、万が一、冒頓が羽磋のせいで身動きが取れないまま「母を待つ少女」の奇岩に殺されてしまったとしたら、彼の部下たちでは彼女に太刀打ちできないであろうことを考えると、むしろ、羽磋が短剣で切りつけられないでいる方が不思議だとさえ言えるような、極限の状況でした。
「な、何をやっているんですかっ! 羽磋殿、冒頓殿から離れて!」
彼らを取り囲んでいる男たちの間から飛んだ若々しい声は、苑のものでしょうか。苑の声は、彼が飼っているオオノスリが敵を見つけた時に上げる声のように、鋭く、そして、甲高いものでした。
「・・・・・・き、聞いて、ぼく・・・・・・、・・・・・・下さい」
「おい、羽磋っ、いい加減にしやがれっ。この、このっ!」
羽磋は腕に全身の力を込めて、冒頓の身体を押さえつけています。あまりにもそこに力を集中しているので、「事情を説明して戦いを止めさせる」ことが本来の目的であるはずなのに、まともに話をすることもできないほどです。
それでも、やはり冒頓と羽磋とでは体格も違いますし、それぞれが持っている組み合いでの技量にも大きな差がありました。
グッググッと冒頓が力を込めて腕をねじ込む度に、羽磋の身体と彼の身体との間の隙間は大きくなっていきました。
自分の真後ろにあった羽磋の身体が少しずつずれて来たのを背中で感じ取ると、冒頓は勢いよく体を捩じって、短剣を持っている右側を地面から浮かせました。そして、自由になった右腕を勢いよく背中側に振りました。
「ウグゥッ・・・・・・」
冒頓は背中で、荒い息がボウッとぶつけられるのを感じました。
彼が振るった短剣の柄が、狙いたがわず、羽磋の脇腹を捉えたのです。水樽を締める鉄のタガのように冒頓の腰にしっかりと巻き付いていた羽磋の腕の力が、フイッと緩みました。冒頓はその隙にそこから抜け出そうと藻掻くのではなく、羽磋の腕の中で自分の身体をくるりと回転させました。そして、両の腕で彼の身体を押し上げてさらに隙間を広げると、膝を折り曲げて自分の足をそこへねじ込みました。
「何を、やってるんだ、お前はよっ。おらぁ!」
冒頓が勢いよく伸ばした両脚は、なんとか彼にしがみつこうとする羽磋の身体を易々と引き離し、ドンッと大きく跳ね上げました。羽磋の身体は冒頓から離れ、ゴビの大地の上へと転がることになるのでした。