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月の砂漠のかぐや姫 第328話

「おっ、これは、行けるんじゃねえかっ」
 冒頓は、相手の攻撃を受け止めようと身体の前に突き出していた短剣を、素早く引き戻しました。
 自分が見せてしまった大きな隙をついて相手が攻撃を仕掛けてくると思った冒頓は、咄嗟に防御の構えを取っていたのでしたが、相手からの仕掛けはありませんでした。それどころか、「母を待つ少女」の奇岩は急に動きを止めてしまっていました。防御の必要性がないどころか、逆にいまこそが、こちらから相手に必殺の一撃を加える絶好の機会だと思えたのです。
 冒頓は短剣を腰だめに構え直すと、力強く左足を踏み出しました。「母を待つ少女」の奇岩の身体は、固く締まった砂岩の塊ですが、走り込む勢いと全身の力を短剣に込めて突き刺せば、きっと背中側まで貫き通せるはずです。
「ウオオオオッ・・・・・・!」
 雄たけびを上げながら、「母を待つ少女」の奇岩に向けて突進する冒頓。この好機を絶対に逃すまいと、彼の視線は、自分の短剣を突き立てる目標、つまり、奇岩の中央部分にしっかりと固定されていました。
 でも、残念なことに、冒頓の構えた短剣の切っ先は、彼女の砂岩でできた肌には届かなかったのでした。
 「母を待つ少女」の奇岩は身体を硬直させていて、とても冒頓の素早い動きに対処できる状態ではないのに、どうして彼女は冒頓の攻撃から逃れることができたのでしょうか。それは、彼女に向かっていた冒頓の身体が、不意に加えられた力によって、ゴビの大地の上にドウッと横倒しにされてしまったからでした。
 激しい勢いのまま地面に転がった冒頓の全身はゴビの赤土まみれになり、彼の周りでは細かに砕けた砂岩の砂ぼこりがもうもうと立ちあがりました。
 一体、何が冒頓の身体を打って、ゴビの大地の上に転がしたのでしょうか。
 「母を待つ少女」の奇岩が動きを止めたように思ったのは、冒頓の見誤りだったのでしょうか。それとも、実際に動きは止まっていたものの、それは冒頓を呼び込むために「母を待つ少女」の奇岩が意図して作った隙だったのでしょうか。いずれの理由にしろ、冒頓が「母を待つ少女の奇岩」を倒す好機だと考えたのが誤りで、彼は予想していなかった彼女からの反撃を受けて、打ち倒されてしまったというのでしょうか。
 いいえ、そうではありませんでした。
 未だに「母を待つ少女」の奇岩は、身体の自由を取り戻してはおりませんでした。それに、転倒した冒頓が巻き起こした砂ぼこりの内側にではなく外側に、彼女は立っていましたから、例え身体を動かせたとしても、冒頓を攻撃できる間合いには入っておりませんでした。
 そうすると、冒頓を大地に横倒しにしたのは、彼女とは別の者だということになります。それは一体何者なのでしょうか。
 その正体は、砂ぼこりが薄まって来るにつれて、明らかになってきました。
 片手にしっかりと短剣を握りしめながら地面に横倒しになっている長身の男の姿が、少し離れた場所で戦いの一部始終を見守っていた男たちの目に映ってきました。もちろん、それは彼らの長である冒頓です。でも、護衛隊員の中には、本当にそれが冒頓であると俄かには信じられないとでも言うように、その光景を食い入る様に見つめている者がたくさんいました。何故なら、戦いのさ中に大地に転がされる冒頓の姿など、これまでに彼らが見たことは一度も無かったからでした。
「あ、あれは・・・・・・」
 交易隊の男たちの間から、幾つかの声が上がりました。その声を上げたのは、冒頓の腰に小柄な男が抱き付いているのに気が付いた男たちでした。
 その小柄な若者は、羽磋でした。
 羽磋は、地下世界から地上へと噴出した青色の水が運んできた白い繭玉の中から現れました。もちろん、冒頓も心配していた羽磋が思いもかけない形で戻って来てくれたことはとても嬉しかったのですが、いまは「母を待つ少女」の奇岩との一騎打ちの最中です。一見したところ羽磋の身体に心配なところはなさそうだと判断すると、直ぐに「母を待つ少女」の奇岩へと意識を振り直していました。
 羽磋の側からすると、地下世界の中で再び濃い青色の球体に飲み込まれてからは、自分がどのような状態にあるのかをはっきりと意識することができない、まるで夢の中にいるかのような心持ちでした。その後、グワッと上に向かって打ち出された身体の勢いが弱くなったように感じ、足が固いものに触れたと思った次の瞬間に、眠りから覚めた時のように、一気に現実の中に放り出されました。その現実の場とは、つい先ほどまでいた地下世界ではなくて、地上でした。
 普通の人が眠っている間に違う場所に運ばれて、全く考えたことも無いようなところで目を覚ましたとしたら、どうでしょうか。おそらく、ひどく戸惑ってしまい、状況を飲み込むまで身体を動かすことができないでしょう。
 でも、この時の羽磋は違っていました。彼は、地下世界の中で「母を待つ少女」の母親に対して、地上では冒頓の護衛隊と「母を待つ少女」の奇岩たちとが戦っているはずだと話していました。自分がどのような状況の中に戻されるのかを、あらかじめ理解していたのです。ですから、顔を上げて周囲の人物の位置関係をサッと把握すると、羽磋はすぐに行動に移ることができたのでした。
「駄目ですっ、冒頓殿っ!」
 羽磋の取った行動とは、いま正に「母を待つ少女」の奇岩に対して突進を始めようとする冒頓を止めることでした。何らかの考えを巡らす余裕なんて、全くありません。羽磋は「止めないとっ」という意識に突き動かされるまま全力で走り、冒頓の腰に飛びついたのでした。
 冒頓の方では、地下から噴出した青い水の中から現れた羽磋が立ちあがったところで、「アイツは大丈夫そうだ」と判断し、彼を意識の範疇から外していました。そして、自分が見せてしまった隙をついて来るだろう攻撃に備えること、それが無いと知ると、「母を待つ少女」の奇岩に必殺の一撃を加えることに、全神経を集中していました。
 そうです。確かに冒頓は数々の戦いを潜り抜けて来た強者でありましたが、この状況下で、味方である羽磋に飛び掛かられるなど、全く考えてはおりませんでした。それ故に、真後ろから全力で走る勢いのままに飛びついてきた羽磋が、冒頓にとっては全くの不意打ちとなり、地面へ打ち倒されることとなってしまったのでした。





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