月の砂漠のかぐや姫 第326話
さて、物語の舞台は、再び地上へ戻ります。
地下の大空間の中で濃青色の球体と対峙していた羽磋が、天井から伝わるドドドッという振動を感じて、「自分たちの頭の上で冒頓の騎馬隊が走り回っている。彼らは『母を待つ少女』の奇岩と戦うためにヤルダンに入ったのだから、その戦いがいま繰り広げられているんだ」と考えたのは、的を射ておりました。
「母を待つ少女」の奇岩が立つヤルダンの中では珍しく開けた場所へ、冒頓の騎馬隊は一斉に馬を乗り入れ、待ち受けていた「母を待つ少女」の奇岩や彼女が率いるサバクオオカミの奇岩の群れと、激しい戦いを繰り広げていました。
冒頓の護衛隊は、彼が匈奴から月の民に人質として出された際に一緒にやって来た男たちが中心となっていました。一人一人が非常によく訓練された屈強な男である上に、それぞれが同郷の冒頓と強い信頼で結ばれていて、彼の思うとおりに分かれ、あるいは、一塊になって戦うことができました。
とは言え、彼らが戦っている相手は、野盗や獣の群れとは全く異なります。痛みを感じることも死を恐れることも無い、サバクオオカミの形をした奇岩です。それが、「母を待つ少女」の強い「怒り」と「悲しみ」の波動に導かれて襲い掛かって来るのですから、いかに冒頓の護衛隊が強力だとは言っても、それを打ち破るのは決して容易ではないのでした。
複数の群れに分かれたサバクオオカミの奇岩たちが、連携して護衛隊を追い詰めたりしたかと思うと、今度は護衛隊がワザと隙を作ってサバクオオカミの奇岩を誘い込み、有利な体勢から一斉に矢を射かけたりと、一進一退の攻防が続いていました。
混戦の中で、護衛隊員に襲い掛かる「母を待つ少女」の奇岩の意識を自分に向けさせようと、冒頓はある言葉を叫びました。それは、「お前は独りだ! そして、そうしたのは俺だ!」と言う言葉でした。
もちろん、昔話に語られるほど古くからヤルダンにあった「母を待つ少女」の奇岩の成り立ちに、冒頓が関わっていたはずはありません。その言葉は、戦いの中で「母を待つ少女」の奇岩が何度も漏らした怒りや悔しさを表した言葉を、冒頓が逆手に取ったものでした。
冒頓の思ったとおり、「奇岩」という異形の姿に変えられた上に、ようやく旅から帰って来た母親が自分の姿を目にして絶望し、目の前で地面の割れ目に身を投じたという悲劇を経験した彼女は、冒頓の言葉に即座に反応します。「自分を不幸にした元凶」をようやく見つけたと思った「母を待つ少女」の奇岩は、古くから積み重ねてきた怒りと憎しみを彼にぶつけるために、サバクオオカミの奇岩に分け与えていた力を回収します。
サバクオオカミの形をしていた奇岩は、力を失ったせいで次々と崩れ、不規則な塊や砂粒へと戻っていきます。その反対に、唯一立ち続ける「母を待つ少女」の奇岩からは、これまで以上に大きくて激しい力が、周囲を圧倒するように噴き出すようになるのでした。
「手を出すなよ。俺がやる」
部下たちを制しながら彼女の前へと進み出たのは、やはり、冒頓でした。「母を待つ少女」の奇岩が発するようになった力を見たとたんに、部下たちの剣が届く相手ではないことを理解したのです。そのため、無駄に犠牲を増やすことがないように、自分と彼女との一騎打ちを望んだのでした。
もとより、「母を待つ少女」の奇岩の方では、冒頓こそが自分を悲惨な運命に追い込んだ元凶だと思い込んでいますから、彼のことしか目に入っておりません。
冒頓、そして、「母を待つ少女」の奇岩。
呼吸をすることも忘れてしまったかのように静まる護衛隊の男たちの視線が集まる中で、二人の距離がグッと縮まっていきます。
冒頓か「母を待つ少女」の奇岩か、いずれかが倒れ、いずれかが生き残り、そして、この長い戦いが決着となるのです。
でも、一瞬が一刻とも一日とも感じられる程に緊張が極まったこの時に、思いもかけない横やりが入ったのでした。
これまでに、ヤルダンの広場に幾度か生じていた地震が、再び生じたのです。そして、この戦いの中でも何度か吹き上がっていた青く光る水が、またもや地面の亀裂から高々と吹き上げられたのでした。
ド、ドドオウン、ドュウウウ・・・・・・。シュウウウン!
二人はお互いの動きに極度に集中していました。少しでも相手の動きへの対応が遅れれば、それが命取りになりかねませんから。でも、この青い水の吹き出しに関しては、それを完全に無視することはできませんでした。
なぜなら、砂岩の塊という身体を持つ「母を待つ少女」には、「水」に触れるということは禁忌だったからです。固く締まった砂岩でできている体が、湿ってボロボロに崩れてしまう恐れがあります。一方の冒頓にしてみても、あの青い水を浴びたせいで、心の弱い部分や思い出したくない記憶が刺激され、感情が酷く不安定になってしまったのは、忘れられない苦い経験でした。そうです。一瞬たりとも隙を見せられない相手と対峙しているこの時に地面から噴き出したこの青い水は、それぞれに大きな影響力を持つものだったのでした。
冒頓は、青い水の噴出の度合いを視界の端に捉えながらも、「母を待つ少女」の奇岩に対して身構えることは疎かにしていませんでした。ところが、その構えがフッと緩んだかと思うと、彼の視線は「母を待つ少女」の奇岩から外れて、青い水の噴出の方へと向けられてしまいました。
数多くの戦いを勝ち抜いてきた強者である冒頓が、対峙している敵から視線を外すなど、よほどのことが無ければあり得ません。では、いま彼の視線を引き付けたのは何だったのでしょうか。
それは、地面から噴出した青い水柱が空中に打ちあげた、繭玉のような四つの球体でした。その球体はフワフワと漂いながら降りて来て、地面に触れたとたんにパチンと割れてしまいました。
繭玉の一つから現れたのは、小柄な若者でした。想像もしていなかったその姿を目にした冒頓の口から、大きな声が飛び出しました。
「お、おいっ! お前、羽磋か! 羽磋なのか!」