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月の砂漠のかぐや姫 第327話

 敵と対峙しているにもかかわらず、自分の注意を別のものに向けてしまうだなんて、歴戦の強者である冒頓に似つかわしい行動ではありません。つまり、冒頓の目に入った羽磋の姿は、それだけの大きな衝撃だったということなのでした。

 数日前の事、冒頓の護衛隊は、ヤルダンで交易隊を襲っている「母を待つ少女」の奇岩を倒すために、土光村を出ました。ヤルダンを通り抜けて吐露村に行こうとしている羽磋も冒頓たちに同行し、理亜の身体に起こっている不思議な現象と「母を待つ少女」の奇岩との間に、何らかの関係があるのではないかと考える王柔も、理亜を連れてその一行に加わりました。
 彼らは、ヤルダンに入る直前に、切り立った岩壁に沿った細い道を通ったのですが、そこで、「母を待つ少女」の奇岩が率いるサバクオオカミの奇岩に襲われてしまいました。岩壁の上段に陣取ったサバクオオカミの奇岩たちが、逃げ場のない細い道の上にいる護衛隊めがけて、次々と落下してきたのです。それは、命と心を持たない砂岩の塊だからこそできる攻撃でした。
 その攻撃を受ける側であった冒頓の護衛隊や、彼らが連れていた駱駝や馬は、命と心を持った生き物ですからたまりません。突然頭上から落ちてきた大きな岩の塊に驚いて、大混乱に陥ってしまいました。
 その騒ぎの中で、理亜が乗っていた駱駝が激しく興奮して、どうにも押さえつけることができなくなってしまいました。駱駝は彼女を乗せたまま走り出し、止めようとした羽磋と王柔もろとも道から飛び出して、谷底へと転落してしまったのです。崖下には川が流れていて、羽磋たちはその水に受け止められて命を拾うことができたのですが、そこから岸に這い上がることはできませんでした。川はヤルダン一帯を支える台地の下部へと流れ込んでいて、その先は地上から見ることはできなくなっていました。羽磋たちは、激しい川の流れに巻き込まれたまま、地下へと続いているのであろう大きな洞窟の中へと消えて行ったのでした。
 声を振り絞って指示を発し、なんとか混乱した護衛隊をその崖際の危険な場所から救い出した冒頓は、羽磋たちが崖から落下して川に流されたこと、その川の流れはヤルダンの地下へと落ちて行っていて、羽磋たちの姿もそこに飲み込まれて消えてしまったことを、部下の小苑からの報告で知りました。
 冒頓が羽磋と初めて会ったのは、彼が護衛を務めていた小野の交易隊が讃岐村の近くを通った時のことでした。羽磋はまだ少年と言ってもいいような若者でしたが、しっかりと目的を持った芯のある男であると、冒頓には思えました。そこから土光村へと交易路を同行する間、冒頓は羽磋には特に目を掛け、古くからの付き合いである護衛隊の男たちと同じように、いや、むしろそれ以上に、可愛がっていたのでした。
 その羽磋が、川を流されてヤルダンの地下へと消えて行ったと聞かされた時、護衛隊の誰もが「羽磋はもうお終いだ」と悲しむ中で、冒頓だけは「まさか、これで終わりじゃないよな、羽磋」と自分自身に信じ込ませるように呟きました。それは「羽磋は、こんなところで死なすには惜しい男だ」という思いと、「奴なら何とか生き延びてくれるはずだ」という、祈りとも言えるような根拠のない確信からでした。
 でも、まさか。
 如何に羽磋が命を拾ってくれること、そして、再び地上に戻って来ることを願っていた冒頓であっても、まさか、このような時にこのような形で戻って来るなどとは、想像もしたことが無かったのでした。

「ちっ、俺としたことがっ」
 地表に触れて割れた繭玉の中から現れた羽磋が、膝に手を当てながら立ちあがったことを確認すると、冒頓は素早く意識を「母を待つ少女」の奇岩に戻しました。自分が相手に隙を見せてしまったことは自覚できていましたから、どこから攻撃が来ても避けられるように、全身の筋肉に準備の指令を出しながらでした。
 でも、意外なことに、冒頓の隙をついて相手が攻撃をしてくることはありませんでした。
 「母を待つ少女」の奇岩にとっては、冒頓を打ち倒すのにこれ以上の好機は無いというのに、どうして彼女はそれを見過ごしてしまったのでしょうか。
 それは、「母を待つ少女」の奇岩の側でも、青い水の大きな噴出が地上に運んできた繭玉の一つに、意識の一部を奪われてしまったからでした。
「お、お前は・・・・・・」
 冒頓が漏らしたのと同じような言葉が、「母を待つ少女」の奇岩から発せられました。
 彼女も冒頓と同じように、羽磋の登場に驚いたのでしょうか。いいえ、彼女の意識が向かっていたのは、羽磋のすぐ近くに降り立って割れた残りの繭玉の方でした。三つの繭玉のうち二つは空っぽでしたが、最期に割れた繭玉の中から、一人の少女が現れたのです。そうです、「母を待つ少女」の奇岩の意識を奪ったのは、羽磋と共に地下世界から地上へと吹き上げられた理亜だったのでした。
 思い返せば、羽磋や理亜たちは冒頓の護衛隊と一緒にヤルダンへと向かい、その途中でサバクオオカミの奇岩の群れに襲われましたが、その時には「母を待つ少女」の奇岩はヤルダンを出てきてはいませんでした。また、彼らが切り立った岩壁と深い谷との間に差し掛かったところで、岩壁の真上に「母を待つ少女」の奇岩が現れ、岩の塊を落とすという奇襲を仕掛けてきました。でも、彼女と冒頓たちとの間にはかなりの高低差が存在していましたし、切り立った崖の縁から下を覗き込んで注視することなど、「母を待つ少女」の奇岩はおこなっていなかったので、冒頓の護衛隊が連れている小規模の隊商の中に小さな女の子が含まれていることを、知ることはなかったのでした。
 つまり、「母を待つ少女」の奇岩が、理亜と言う存在をしっかりと認識し向き合う機会は、これが初めてだったのでした。
「お、いや・・・・・・。あの時の・・・・・・」
 先ほどまで「母を待つ少女」の奇岩から冒頓に向かって一直線に発せられていた、燃えるような怒りと憎しみが、急に弱々しくなって揺らぎ出しました。
 まるで命ある戦士のようにしなやかで力強かったその動きが、人形の動きのようなギクシャクとしたものに変わり、最期には止まってしまいました。
 「母を待つ少女」の奇岩は、昔話に登場する少女「由」と理亜の二人が、それぞれ持っていた悲しみや怒りなどの心の暗い部分を集めて、自らの心としていました。その寄せ集められた心の断片が、理亜と言う少女に集められた二人の心の明るい部分を初めて見ることで、何かに自分が裏切られたような気がして一層怒りを燃え立たせたり、何かに慰められたかのように気持ちが穏やかになったり、理由も無いのにとても悲しい気持ちになったりして、収拾がつかなくなってしまったのでした。








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