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月の砂漠のかぐや姫 第330話

「くそっ、手間取っちまったっ」
 悪態をつきながら、冒頓は急いで立ち上がりました。さらに、その動きのさ中にも素早く「母を待つ少女」の奇岩に視線を走らせ、彼女からの攻撃に対して身構えようとしました。
 もちろん、跳ね飛ばした羽磋が再びしがみ付いてくる恐れもあるので、彼から目を逸らしたくはありません。でも、しがみ付いてくるだけの羽磋よりも、岩の塊である拳を振り回して攻撃して来る「母を待つ少女」の奇岩の方がよほど危険です。羽磋のせいで乱れてしまったその奇岩への注意を、冒頓は真っ先に取り戻そうとしたのでした。
 流石はいくつもの乱戦を経験してきた冒頓です。彼は羽磋に組みつかれて乱れた体勢と解けてしまった集中力を、即座に回復していました。
 もっとも、たとえ僅かの時間であっても、一騎打ちをしている相手から注意をそらしてしまっていただなんて、命を失っていてもおかしくなかったところです。冒頓と羽磋が組みあっている間に、彼らに対しての奇岩からの攻撃がなかったのは、幸運であったとしか言いようがありません。
 冒頓は、自分がいまどのような状況の下にあるのかを把握するために、辺りに素早く目を走らせました。
 その彼の目に映ったのは、自分を攻撃しようと構える「母を待つ少女」の奇岩の姿ではありませんでした。また、先ほど見たような硬直して動きを止めている光景でもありませんでした。それらよりも、もっと不思議なものだったのです。
「お、おい。なんだ、これは・・・・・・」
 冒頓の口から、無意識の内に呟きが零れ落ちました。
 「母を待つ少女」の奇岩との戦いのさ中に、地面の割れ目から噴出した青い水柱。自分はその水柱が地中から吹きあげて来た羽磋に注意を奪われましたが、奇岩の方でも何かに注意をすっかり奪われたようで、彼女はその動きを止めてしまいました。
 その大きな隙に乗じて「母を待つ少女」の奇岩を破壊しようと踏み出したところで、冒頓は羽磋に組み止められてしまいました。その羽磋をようやく振り解いて、目を奇岩の方に戻してみると・・・・・・。
 「母を待つ少女」の奇岩は、まだその獣のような滑らかな動きを取り戻してはおらず、痛みを抱えた老人のようなギクシャクとした動きしかできていませんでした。ただ、冒頓が驚いたのは、その「母を待つ少女」の奇岩の動きにではありませんでした。彼女の周りに、戦いの真っただ中にはまったく相応しくない光景が見られたからでした。
 冒頓と「母を待つ少女」の奇岩との一騎打ちが行われていた時から、護衛隊の男たちは周りに立ってそれを見守っていました。その男たちの中心にぽっかりと空いたところに、「母を待つ少女」の奇岩だけでなく、もう一人の人物が立っていたのです。それは、羽磋と一緒に地中から吹き上げられてきた理亜でした。
 「母を待つ少女」の奇岩と小さな女の子では、戦いになるはずがありません。でも、冒頓と相対した時と同じように、いいえ、それ以上に、彼女が理亜の一挙手一投足に対して全神経を集中していることが、傍から見ていてもわかりました。先ほどまで命懸けの戦いを行っていた冒頓がすぐそばにいるというのに、彼のことは奇岩の少女の意識から完全に抜け落ちているようでした。
 一方で、地面の割れ目から噴き出した青い水と共に現れた理亜も、「母を待つ少女」の奇岩の他はまったく視界に入っていないとでも言うように、奇岩の顔と思しき部分をじっと見つめたまま、視線を動かそうとはしませんでした。
 周囲を取り囲む冒頓の護衛隊の男たちにも、二人の間を満たしている、静かで、でも、緊迫した空気が伝わっていましたので、彼らが動いたり声を出したりすることはなくなっていました。それは、「そのような事をして、二人の邪魔をしてはいけない」と、彼らが自然に感じ取っていたからでした。
 冒頓が見たのは、この「母を待つ少女」の奇岩と理亜が向き合っている光景だったのでした。
 「母を待つ少女」の奇岩とは、ついさっきまで戦っていたところでしたから、冒頓はその恐ろしさを良くわかっていました。もちろん、理亜のことは、王柔が連れていたので何度も会ったことがあります。ですから、いつもの冒頓であれば、「嬢ちゃん、あぶねえぜっ」と叫びながら、理亜を守ろうとして飛び出すような場面でした。
 ところが、この時の冒頓は、そのような動きは見せませんでした。
 それは、どうしてでしょうか。
 ピリピリッと緊迫した空気が二人の間に満ちているのは感じられましたが、そこに攻撃的なものが感じられなかったと言うこともあります。でも、最も大きな理由は、自分が見ている光景がこの上もなく現実離れしていて、昔話の一場面を見ているように思えたからでした。そして、その物語はこの先にも続きがあるのだと、無意識の内に確信していたのでした。
「これから何かが起きる」
 勘の良い冒頓は、この場ではなくこの先に何かが起きると感じ取っていたのでした。でも、それは血の匂いがするような危険の予兆ではなくて、とても厳かで神聖な何かだとも受け取っていました。ですから、それが進行するさ中に自分が飛び込んでいくことなど、「俄かに突き進む。押し切って進める」ことが多くて冒頓と言う名で呼ばれる彼にしても、ほんの小さな欠片でさえも思い浮かべることはなかったのでした。
「冒頓殿・・・・・・。ありがとうございます」
「ああ、気にするな。お前が言うからじゃねぇ。いまは手を出しちゃいけねぇ、俺がそう思ったからだ」
 いつの間に立ちあがっていたのでしょうか、「母を待つ少女」の奇岩と理亜の様子をじっと見つめる冒頓の横に羽磋が戻って来ていて、その場の張り詰めた空気を壊さないような小さな声で、礼を言うのでした。
 理亜たちの方に顔を向けながらも、冒頓は羽磋の動きに気が付いていたのでしょう。前触れもなくかけられた羽磋の声に驚く様子も見せずに、言葉を返すのでした。





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