月の砂漠のかぐや姫 第317話
理亜が思わず大きな声を上げてしまったのは、昨日の夜に自分がもたれかかっていた背の高い砂岩の塊が、どこにも見当たらなくなっていることに気付いたからでした。
いまも広場には小ぶりな砂岩の塊が幾つも転がっています。でも、それらは小さな理亜の腰ぐらいまでの高さしかありません。ぐったりとした彼女が背中を預けたあの砂岩の塊とは、明らかに異なるのです。
「どうしたんだろう・・・・・・」
あの砂岩の姿を探してあちらこちらに目をやりながら、理亜はぼんやりとしている昨晩の記憶を、もう一度思い返してみました。
なんだか、自分がもたれかかっていた砂岩の塊から声が聞こえてきたような、それも自分と同じような女の子の声が聞こえて来て、おしゃべりをしたような・・・・・・。そうだ、たしかその子もお母さんを捜していると言っていたような・・・・・・。ああ、それで、その子に自分はお水をあげたんだった・・・・・・。
理亜は自分が持っている水袋を顔の前に持ってくると、ジッと見つめました。ダランと力無く垂れ下がったその袋の中には、水は少しも入っていません。これが、もともと空っぽだったのか、それとも、砂岩の女の子に水をあげたからなのか、いまの理亜にはさっぱりわかりませんでした。
「うーん。わかんない・・・・・・。でも、良いカ。それよりも、村まで行ってオージュとおかあさんに会わないと!」
ほんの少しの間、理亜は目を閉じて昨日の夜の事に考えを集中してみたのですが、それでも何も思いつかないとなると、すぐに次のことに考えを切り替えました。
いまの理亜の身体には元気が溢れています。確かに皮袋の中に水は残っていないのですが、これからどうしようなどと言う不安な気持ちは全く起きてきません。それに、昨日の夜はヤルダンの出口ではなくて奥の方へと迷い込んでしまったのですが、不思議なことに、いまの理亜には王柔が待っていると話した村の方角が、なんとなく見当がついています。さらに、そこまで歩いていけるかの心配は心に浮かんでおらず、むしろ、王柔に会えることへの期待しかないと言って良いぐらいです。
彼女を以前から引き続いて観察しているものがいたとしたら、昨日の夜と今朝では、彼女の様子の変化があまりにも大きて驚いたことでしょう。でも、それが自分自身の事だから気が付かないのでしょうか、あれほど苦しんだ病気がすっかり治っていることや、迷路のようなヤルダンの中で少しの水も持たずにたった一人でいるというのに、今後のことについて少しも不安を感じないことなどを、理亜本人は当たり前のことと受け入れていて、それについて特別に意識することは無いのでした。
理亜は顔を高く上げて方角を見定めました。それは、間違いなく、王柔が寒山の交易隊を導いた土光村の方角でした。
「オージュ、行くヨ、待っててネ」
理亜は自信に満ちた足取りで、ヤルダンの出口に向かって広場を出て行くのでした。
僅か一晩のうちに理亜の身体と心に起こった、異変とも言えるほどの大きな変化。どうして彼女にこのようなことが起きたのでしょうか。人の目には偶然としか映らない、精霊の気まぐれによるものなのでしょうか。
いいえ、これには、はっきりとした理由がありました。
朦朧とした意識の中で深く考えもせずに行った理亜のある行為、つまり、自分の皮袋から母を待つ少女の奇岩の足元に水を注いだ行為が、大きな意味を持っていたのです。
ヤルダンは、非常に乾燥した地域であるゴビの一角にあります。
ゴビの中で水辺は限られたところにしかなく、草地と呼べるほど下草が茂っている場所もわずかしかありません。そのほとんどは、アカシアや駱駝草などの乾燥に強い植物がポツポツと点在するだけの礫砂漠です。日差しを遮るものなどないゴビは、昼間と夜間、夏と冬の気温の差も非常に大きく、水源の少なさも相まって、農耕を行うには適していません。
この厳しい環境の中でもっとも大切なものは、「水」です。それは、命を繋ぎ、また、命を育むために、欠かすことができないものです。それゆえ、このゴビの大地で遊牧をして暮らしている月の民が、先祖や精霊に対して祭祀を執り行う際には、儀式の中で「水」を命の象徴として扱っています。
水がどれほど大切なものかは、少しでもゴビに足を踏み入れたことがある人であれば、誰もが即座に実感することでしょう。ゴビに照り付ける太陽の光は強くて、焚火の日で直にあぶられているかのようですし、吹き付ける強い風はカラカラに乾いていて、身体が帯びた熱を冷まして楽にしてくれるどころか、皮膚の表面から水分を奪って去っていくのですから。
月の民の人がある場所までの距離を説明する時に「水袋を忘れたまま歩いて行けるぐらいの距離だ」と言うことがありますが、その場所は驚くほど近くにあることがほとんどです。なぜなら、ゴビの大地を歩く時には、あまりの暑さと乾燥のひどさで、すぐに無意識の内に水袋に手が伸びるからです。
この命と等しいと言っても良いほど大切な水を、理亜は母を待つ少女に全て与えたのです。その時の理亜は熱に浮かされて意識がもうろうとしていましたから、それは明確な決意や意図を持ってした行動ではありません。むしろ、心の中に響いてきた声を聞くうちに、その辛い話を語る女の子と自分のことを重ね合わせて、心の中から自然と湧き起こった行動でした。でも、この行為は理亜が自分の命を分け与えたと言っても差し支えない、重要な意味を持ったものだったのでした。