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【短編小説】思い込んだら命懸け

 田舎の村。とてつもない田舎の村。
 俺は新規開店を明日に控えた店の前で、地元の人たちと会話をしている。
 ようやくだ。やっとここまで来たぜ。
 俺の子供のころからの夢はピザ職人になることだった。だから俺は、中学を卒業すると直ぐに料理の世界に飛び込んだ。親は高校にだけは行ってくれと言って泣いたが、そんな回り道はしたくなかった。修行の為にわざと見ず知らずの他人の店で働いたんだが、シェフと言い合いになって辞めさせられることが何度もあった。どいつもこいつも「お前は思い込みが強すぎる」と言いやがった。中には「お前はいつか思い込みの強さのせいで痛い目に合う」なんていう奴もいた。何を言ってやがるんだ。思い込んだら命懸けでただひたすらに走り続けないと、目指している所には辿り着けないじゃねぇか。
 それでも、何年か修行するうちにどうやら自分の腕に自信が持てるようになってきたので、俺は自分の店を持つために動き出すことにした。もちろん、金なんか全くない中での出発だ。借りられた物件の改装はできるだけ自分でやることにしたが、これにも本当に苦労した。だけど何とかこうして形になった。それにここ数日のトラブルも、開店前にカタが付きそうだ。
 あぁ、「自分の店でこだわりの焼きたてピザを客に出す」という夢が、とうとう叶うんだ。
 こみ上げてくる嬉しさでグッとこぶしを握る俺に、村のご婦人が明るい声で話しかけてくる。新しく店ができるということ自体が珍しいんだろうし、その店が「ピザ屋」という田舎とはミスマッチな店なもんだから、興味津々の様子だ。
「こんな田舎にお洒落なピザ屋さんができるなんて、ありがたいねぇ」
「ほんとにねぇ。平家の落ち武者の隠れ里って伝説があるくらい孤立した村だから、コンビニすらないものねぇ。買い物をするにも不便なぐらいだし。ねぇ、失礼だけど、あなた、村の人じゃないでしょ。どうして、ここに?」
「そうっす、自分はこの村の出じゃないっす。街でいろんなピザ屋で修行してたんすけど、やっぱり自分の店を持ちたい、それに、水や食材にこだわった自分だけのピザをお客さんに出したいって夢があって、いろいろと場所を探したんす。そしたら、この村がすごく良い場所だって知ったんすよ。綺麗な水は出るし、昔からの小麦の生産地でもあるし、新鮮な野菜も手に入るし、それに、店の賃料も・・・・・・、おっと、いやいや」
「ふふふっ。良いのよ。ここは本当に辺鄙なところだから、賃料は安かったでしょう。でも、こんなに人の少ないところに出店して、商売の方は大丈夫なのかしら」
「はぁ、すんません。古民家を改装して使わせてもらってるんすが、そこはずいぶん前から誰も住んでないから好きに使って良いって大家さんに言われてて、賃料は掛かってないんす。ホントにありがたいっす。後はもう、俺の作るピザ次第っす。旨いピザを作ればどこに店があっても客は来てくれるっす!」
「すごい情熱ね。開店を楽しみにしてますね」
「焼きたてのピザなんて食べたことがないねぇ。ありがたいありがたい。きっと食べに来るからね」
「ありがとうございますっす。思い込んだら命懸けで、頑張るっす!」
 村の人の言葉が嬉しくて、俺は勢いよく頭を下げた。村の人たちは帰り際にも、何度も「頑張ってね」と声を掛けてくれた。
 あぁ、良い人たちだ。やっぱり、ここは良い村だ。辺鄙なところにある孤立した村だけどさ。
 そういや、さっきの人がこの村には「平家の落ち武者の隠れ里」って伝説があるって言ってたな。俺は村の出じゃないけど、そういう風に言われるのが良くわかるよ。店を出す場所を調べるときにその伝承について書かれた記事を見た気がするし、それに何よりも、な。
 きっと、あれが良くなかったんだよなぁ。 
 とにかく俺は金がないから、ピザを焼くための石窯をこしらえるときにも、必要最低限の耐火煉瓦しか用意できなかったんだよ。それで、裏山に入って部材にできそうな石を集めて回ったんだよな。そこで見つけたあの石、「おおっ、なんか四角くて使いやすそう」って思って取ってきた石、あれのせいなんだろうなぁ。なんか表面にうっすらと文字のようなものが彫ってあったもんな。あれを石窯の土台にしたのはマズかったかもなぁ。


 あいつが初めて現れたのは、そうだ、石窯を組み上げた日の夜だった。外注した電気工事の人間が引き上げた後、俺が内装作業を進めるために一人で店に残っていたところに、あいつが現れたんだった。
 あいつの乱雑に束ねられた髪の毛には、赤黒い血がべっとりとこびり付いていた。
 蠟のように白くなった肌は、長年放置した障子紙のように、いたるところが破れてボロボロだった。
 どんよりと濁った眼は焦点があっておらず、どこを見ているかわからなかった。
 煤だらけの頬は、こけたと言うよりは陥没していた。
 破れ放題でボロボロの衣類の上には、鎧の残骸のようなものがいくつか引っかかっていた。
 右手に握った刀は赤錆が重なって不格好に膨らんでいて、刃物というよりは鈍器と言った方がふさわしかった。
 そしてご丁寧なことに、あいつの背中には矢が二、三本突き刺さっていた。
 ああ、一目でわかったね。これは「平家の落ち武者」の幽霊だって。
「う、うわああっ!」
 俺は大声をあげて、あいつから飛び退った。だって仕方ねぇじゃないか。突然、店の中に平家の落ち武者の幽霊が現れて、しかも、俺に向かって刀を構えていたんだぜ。
「グウアアッ・・・・・・、オオオオゥ・・・・・・、ウゥ・・・・・・」
 あいつは俺に向かって突進し・・・・・・てこなかった。いや、しようとしたんだが、出来なかったんだ。俺に向かって一歩踏み出したとたんに、あいつはへなへなとその場に座り込んでしまったんだ。刀を手放して、腹を押さえて。
 ああ、わかる。俺も金がないからわかる。これはアレだ、腹が減って力が出ないってヤツだ。
「な、なんだ、お前。腹減ってんのかよ」
 俺はあいつに近づかないように気を付けながらも、ついつい声を掛けてしまった。幽霊とは言え、あまりにもかわいそうに思えたんだ。それぐらい、あいつはボロボロでガリガリだった。
 平家の時代と今の時代では言葉が異なるのかもしれないし、単純に幽霊とは言葉が通じないのかもしれない。俺が何を言ってもあいつには伝わらないようだった。だが、俺がものを食べるしぐさをして見せると、それはもう勢いよく首を縦に振るのだった。
「オオ・・・・・・ン、ド・・・・・・ン・・・・・・」
「おお、なんだ、やっぱり腹が減ってんのか。仕方ねぇなぁ。なんかあったかなぁ」
 俺は荷物を置いている厨房の方を振り返った。できるだけ金を節約するために、しばらくは泊まり込みで店の内装作業をやるつもりだった。この村にはコンビニがないから、その間の食料を持ち込んでいたのだ。単純に腹を膨らませるための食料だけじゃないぜ。新しい石窯でピザを試し焼きしたり、メニューの研究をしたりもしたかったから、小麦粉やらチーズやらの食材はたっぷりと持ち込んでいたさ。
「おい、お前、ピザ喰うか、ピザッ・・・・・・、っておい・・・・・・」
 そうだ、石窯はまだ組み上げたばかりで使えないが、電気は既に来ているからオーブンは使える。ここは一つ、自慢のピザを喰わせてやるか。
 そう思いついてあいつの方を見たときには、その姿は無くなっていた。俺は慌てて周りを見回したがあいつはどこにもいなかったし、血の跡のようなあいつがそこに居たことを示すものも全く見つからなかった。
 平家の落ち武者の幽霊だぜ。あまりにも現実離れした出来事だったし、あいつがここにいた痕跡も全く見つからなかったから、その時には「慣れない作業で疲れすぎて、つい居眠りして夢でも見たか」と思うことにしたんだよな。ここが平家の隠れ里って伝承は、下調べの時から知ってたわけだからさ。それが気になってて、夢に出てきたのかと。
 ところが、あいつは次の日もその次の日も現れやがった。
 いやいや、現れるのは現れるんだが、あいつはその度に腹を押さえてしゃがみ込み、呻き声をあげながら消えていくんだ。その掠れた声の調子と言ったら、どんな名優でも再現できないような悲痛なもなものだった。
 俺は思ったね。「こりゃ、なんとか満腹にさせて、成仏させてやりたいな」と。


 その次にあいつが現れた時、俺は奴に自慢のピザを差し出した。この世に現れるのにも体力がいるのか、極限まで腹を空かせているあいつは直ぐに消えてしまうから、あらかじめ焼いておいたものだ。確かに味は焼きたてには劣るし、あいつが初めて見る料理であることも間違いない。だが、あそこまで腹を空かせているんだ、喜んでピザに飛びつくだろうと思ったわけさ。
 それなのに、あいつときたら何が不満だったんだろうか。
「ウウ・・・・・・、ドオ・・・・・・ン」
 またもや悲しげに呻き声を上げると、すぅっと消えてしまいやがった。俺の心づくしのピザには手も触れずによ。
 はいはい、そうですか。わかりました。
 そのまた次の日の夜にあいつが現れた時には、俺は何も用意してやらなかった。当然だろう、あいつは人の好意を無にしやがったんだから。案の定、あいつは腹を押さえて、呻くようないつもの声を上げながら消えちまった。やれやれ、勝手にするがいいや。
 いや。いやいや、駄目だ。駄目なんだよ、勝手にされちゃ。
 今のところ、あいつは毎晩現れている。このままこれがずっと続けば、開店当日の夜にも奴が現れるってことになってしまう。もちろん、開店してしまえば夜も営業中なわけだから・・・・・・。うわっ、念願かなってようやく立ち上げることができた俺の店が、旨いピザが食える店としてでなくて心霊スポットとして有名になっちまうじゃねぇか。
 くそ、仕方がねぇ。なんとしてもあいつには満腹になって成仏してもらわねえと。
 大変なことに気が付いた俺は、次の日からメニューに載せるつもりのピザを片っ端から作っていった。ひょっとしたら、最初に出したピザはダメだけど他の物ならいけるとかがあるんじゃねぇかと思ってさ。
 だけど、やっぱり駄目だった。
「オン・・・・・・、ド・・・・・・ン・・・・・・」
 あいつは俺の作ったピザには見向きもせずに、いつもいつも呻き声をあげて消えていきやがるんだ。開店の日はどんどんと近づいてきていた。どうすりゃいいんだよ。くそ、あいつめ、あいつめっ。あいつが消えた店内で、俺は頭を抱えながら叫んだんだっけ。
「くそっ、せっかくのピザも喰わねえで、なんだよ、毎回毎回オウドーンって唸りながら消えちまいやがってよ」
 あいつの叫びをまねしたその時に俺は初めて気が付いたんだ。「オ・・・・・・ン、ド・・・・・・ン」だったっけ。あいつが毎回唸ってたのは。あれって「おうどん」じゃねぇのかってな。
 そうだよ、そう考えれば話が分かるってもんだ。この村は昔からの小麦の生産地だから、きっとうどんも昔から作ってたんだよ。そんでもって、あいつは生まれ育った村の名産であるうどんをもう一度食べたいと思いながら、戦場で死んでいったんだ。ああ、だからだ、だからほかの食いもんには目もくれないってわけなんだ。
 そうとわかれば、俺も料理人の端くれだ。しかも、ここにはピザの生地を作るための小麦粉がたっぷりとある。ようし、「おうどん」か。作ってやろうじゃねぇかよ。


 次の日の夜。店の奥。厨房。
 作業台の上には、小麦粉が一面に散らばっていた。
 その前で、腰に手を当てながら大きなため息をついていたのは、俺。
 カウンターの上では、出来立てのうどんが旨そうに湯気を上げていた。
 カウンターの向こうには、あいつ。哀しそうな顔を見せているが、うどんには一向に手を付けやしねぇ。
「おいっ、お前のために作ってやったんじゃねぇか。うどんだぜ、喰えよっ」
「オゥー。オ・・・・・・ドン・・・・・・」
「だから、うどんだって言ってんだろう、まったくよっ」
 あいつの態度にイライラして怒鳴りつける俺。「うどん、うどん」と言うからわざわざ作ってやったというのに、このくそ幽霊めっ。なんだよ、何か足りねえのか。具材かなんかか。きつねうどんじゃねぇとダメだとか言うんじゃねぇだろうな。ああぁ、ピザ屋に揚げなんかがあるわけねぇじゃねぇか。
 なんかねぇか、なんか。
 くそ、くそ、くそ、くそ、くそうっ。なんかねぇかっ。
 怒りに震える手で、俺は手近の引き出しや冷蔵庫のドアなどを次々と開けて行った。
 もちろん揚げなんかが出てくるはずはねぇ。和風なものは、せいぜい明太子やノリぐらいなもんだ。
「オ・・・・・・ン、ド・・・・・・ン・・・・・・」
 あいつの呻き声が背中に響いてきた。くそっ、また「おうどん」って言いながら消えやがったか。せっかくうどんを作ってやったのに喰わねぇくせによ。具材がねぇことを気にするなんて生意気なんだよ。
 バタンガコンっと音を立てながら乱暴に戸を開け閉めして、具材を探す俺。時間がねぇんだよ。もう開店の日が目と鼻の先なんだから。なんか具になるもんはねぇのか。くそっ。
 ん・・・・・・。なんだ、これは。
 業務用冷蔵庫の一角に入れてあったものが、俺の目に留まった。
 うどん、おうどん、おんどん・・・・・・。
 急にあいつの呻き声が俺の頭の中で何度も響き渡った。
 ああっ、ひょっとして、あああっ。
 俺は冷蔵庫のがっしりとした扉を開け放したままで、大きな声を上げた。俺が目にしていたのは、ボールの中に水に浸した状態で保存していたモッツァレラチーズだった。


 そして、開店の日を明日に迎えた今日に至るってわけだ。
 俺はさっきからあいつが現れるのを待っている。あいつに食べさせるための「おうどん」を用意して。
「オオゥウウ・・・・・・」
 来たっ。現れやがった。
 返り血かなんか知らねえが全身に血がこびり付いた、ガリガリに痩せ衰えたズタボロの落ち武者の幽霊。
 こんなもんが店に現れたら、思い込んだら命懸けでようやく形にした俺の夢も一発でお終いになっちまう。
 こいつが初めて現れたときからずっと、俺はピザで腹いっぱいにさせて成仏させてやろうとしてたんが、まったく上手く行かなかった。それは、こいつは単に腹が減っている幽霊じゃなくて、「おうどん」に未練を持ったまま死んだ落ち武者の幽霊だからだ。だけど、俺が作った「おうどん」にこいつは見向きもしなかった。なんでだ? 始めはその理由がわからなかったが、俺はあるものを見てそれに気が付いたんだ。絶対に間違いない。今度こそ、あいつは俺の出す「おうどん」に喰いつくはずだ。
「さぁ、喰いな。お前の喰いたいものは、こいつだろうっ」
「オオ・・・・・・ン、ドォ・・・・・・ン・・・・・・」
 俺がカウンターの上に置いたどんぶりに、あいつが初めて反応した。
 口をぽかんと開けたままで、濁った眼でそのどんぶりを食い入るように見つめた。
 次の瞬間、あいつは刀を放り出すとガツッと両手でどんぶりを掴み、「おうどん」を口に流し入れたんだ。
「やっぱりなっ」
 ああ、そうだ。俺の思い込みが間違ってたんだ。
 あいつの言う「おうどん」と俺の考える「おうどん」は、同じじゃなかったんだ。
 あいつが生きていた時代と現代では、言葉も違えば生活も違う。だから、「おうどん」だって違っていたんだ。
 昨日、俺があいつに出した「おうどん」は、俺が知っている「おうどん」だった。つまり「麺」だ。だが、うどんが今のように「麺」として食べられるようになったのは江戸時代以降だと言われている。それ以前は違っていたんだ。だから、あいつが言う「おうどん」は「麺」じゃない。「団子状」なんだ。小麦粉を捏ねて塊にしたものを汁に入れて食べるんだよ。そうだ、ちょうどモッツァレラチーズの塊を水に入れて保存するような感じで、プカプカと浮かべてな。
「オオ・・・・・・ウ、ドォ・・・・・・ン・・・・・・」
 カタンッと空になったどんぶりを置いた後にあいつがあげた声は、これまでの嘆き節でなくて、妙にしんみりとしたものだった。未練を残していた「おうどん」をようやく口にできて、故郷のことでも思い出しているんだろうか。良かったよな。色々と苦労があったあげくに討ち死にしちまったんだろうが、最後に故郷の味に出会えてよ。へへっ、俺も苦労した甲斐があったってもんだ。なんだかこっちまで感動して目頭が熱くなっちまうぜ。
 心地よい達成感を味わいながら俺が見守る中、あいつの身体にどんどんと活力が満ちていくのがわかった。
 おお、さすが霊体、回復も早いぜ。さぁ。満足したなら、さっさと成仏してくれ。なんなら、極楽からこの店を見守っててくれよ。毎年この「おうどん」をお供えするからさ。
 体中に満ちた力を確認するかのようにブルブルっと身を震わせたあいつは、「おうどん」を見たときに床に放り出していた刀を拾い上げた。おうおう、そうだそうだ。成仏するときにそいつも一緒に持って行ってくれないとな。
 あいつが成仏するところを見届けてやろうと、温かな気持ちで見守る俺。
 それなのに、あいつときたら。 
「オオオオゥッ」
 一声叫んだかと思うと、俺に襲い掛かってきやがったんだ。
「ちょ、ちょ、ちょっと待てっ。なんでだよっ」
 ヒュッ、ダンッ。
 反射的に引っ込めた俺の首があったところを、あいつが振り払った刀が通過した。そして、その刀は店の柱にぶつかって深い傷をつけた。
 ほ、ほ、本気だ。
 や、や、ヤバい。
 なんでだよ、お前は「おうどん」を平らげただろうが。満足して成仏するんじゃなかったのかよ。ま、まさか、空腹を満たしてやれば成仏するというのは、俺の間違った思い込みだったってのか。ああ、そうかっ。あいつが現れたのは、俺が墓石を石窯の下敷きにしちまったからだったか。
「おい、俺はお前に故郷のおうどんを喰わせてやったじゃねぇか。恩人だぞ、俺はっ」
 そう言おうと思ったが、くそっ、こいつには言葉が通じない。
 何か、何かないのか。
 ビュオッ。ゴツゥ。
「うわぁっ」
 再び振り下ろされるあいつの刀。
 テーブルに倒れ込むようにしてなんとか避けたものの、この狭い厨房じゃいつまでも逃げられない。
 ブンッ。ブオウッ。
「アブッ。くそぉ・・・・・・」
 食材やら機材やらを床にぶちまけながら、厨房中を逃げ惑う俺。
 助けてくれっ。誰でもいい、何でもいい。
 殺されるっ。助けてっ。 
 その時、カウンターにもたれかかった俺の手が、何かに触れた。
 そうだ、これならっ。こいつは万国共通のはずだっ。
 俺はカウンターの上に置かれていた白い布巾を、顔の前に思いっきり広げてあいつに示した。
「降参、降参だ。な、なっ」
「・・・・・・」
 一瞬の静寂。
 そして。
 ザクゥッ。
 俺が最後に見たのは、白い布巾を真っ二つに割いて現れた、赤錆だらけの刀身だった。そして、俺の額の真ん中に、とてつもなく熱くて強い衝撃が生じた。
「オオッ、オオッ、オオオオッツ!」
 興奮したあいつが上げる雄たけびが、俺の耳の底を打った。
 あいつが振り下ろした刀で白旗ごと額をたたき割られた俺は、床の上に倒れ込んだ。
 混濁していく意識の中、俺は思った。
 ああ、そうだ。
 白旗が万国共通で「降参」を意味するってのは、またもや俺の間違った思い込みだった。あいつの時代には、「白旗」は源氏を意味するんだった・・・・・・。
                              (了)





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