小さな叙事詩
東欧の冬は夜の冷え込みが厳しいだけに、朝の訪れは大きな喜びだ。
濃紺色に塗り潰されていた夜空のほんの一部、遠く彼方の地平線の上部に鮮橙色の光が現れたかと思うと、それは徐々にではあるが確実に空を明るい青色に塗り替えていった。朝日の光が石造りの家が立ち並ぶ町にもたらされると、家々の間から白い霧が立ち込め始めた。女性が寒さから身を守るために纏うショールのようなそれは、差し込んだ日光により温められた地面から立ち上る水蒸気だった。
町の一角で、綿のように白い霧の中にぼんやりとその姿の一部を現わしている石壁。それは、古くからこの土地に建ち、多くの家族を見守り続けてきた家の南壁だ。
朝日が当たり温かな黄色に染まったその壁には、しっかりとした木枠で囲まれた小窓があった。
窓の向こう側、つまり、家の内部に、小さな影が現れた。それは少年のものであった。少年は窓に近づいて来ると、カーテンを開けた。
ベッドから出たばかりなのだろうか。カーテンに伸ばしたのと反対側の手で、しきりに目を擦っている。窓が埋め込まれた石壁と同じように青白いその顔にはそばかすが広がっていて、少年はつま先立ちをすることでようやくその顔を窓枠の中へ押し上げることができていた。
「今日は、昨日よりももっと素敵な一日になるぞ」
まだ小さい彼の一日は、驚きと発見に満ちている。今日は昨日よりも常に新しく、カラフルで、楽しいのだ。
朝食の用意ができたという声が聴こえたのだろうか。室内を振り向いた彼の顔には眠気などは少しも残っておらず、新しく始まる一日への期待で溢れていた。
窓辺から消えた少年の姿を見送るかのように、布切れが揺れた。
ボロボロになってもかろうじて窓枠にしがみ付いていた、分厚い茶色の布切れが。
◆◇◇◇◇◇
太陽がその姿を大空に現わしてから幾らかの時間が経つと、ようやく町にも温かな空気が満ちてきた。寒さをしのぐために纏っていた水蒸気のショールを脱いだ家々が、灰白色の肌を見せ始めた。自然の石を切り出したものだからだろうか、石壁のブロックはそれぞれが緩やかな曲線を持ち、その肌には切り傷のような割れ目やニキビのような穴が幾つも開いていた。
勢いよく窓辺に現れて外を覗き込んだのは、先ほどの少年よりは幾らか年上の少女だった。学校に通う友達でも見つけたのだろうか、楽しそうな表情で窓の外へ声を掛けると、くるりと後ろを向いて走り出した。
部屋から出て行ってカバンを持ち、玄関から外へ走り出すのだろう。友達に追いつくために。
わざわざ、戸口から出て行かなくともいいのに。
◇◆◇◇◇◇
町には人の気配など無く、車が走る音も無い。
温かな笑い声も起きなければ、赤子が泣く声も聞こえない。
鳥が叫ぶ声ですら、遠くの空から途切れ途切れに降りてくるだけだ。
タタタ。タタタタ。
時折り小さく聞こえるあの音は虫の声か。
町の外れで上がっている黒い煙は、煙突が吐く煙か。それとも。
◇◇◆◇◇◇
太陽が空に居られる時間は、冬の間はとても短く限られている。
さっきまで空の中ほどに掛かっていると思われていた太陽は、既に地上へと帰り始めていた。
町の家々が長い影を路地に伸ばし始めた。
だが、その影の多くは異形だった。
まるで大男が箱を殴りつぶしたような影が、山のような石が散乱する道路に伸びていた。
かつては一軒の家だったのだろうか、今では二つの塊に分かれたそれらが、お互いにもたれ合って崩れそうな身体を支え合いながら、庭に影を伸ばしていた。
少年と少女が外を眺めていた小窓を備えた家は。
僅かに残った天井の一部を頭に乗せて立つ、一枚の石の壁となっていた。そしてその石壁に埋め込まれた小窓には、ボロボロになった茶色の布切れが引っかかっていて、かつてはここにカーテンが掛かり住人が幸せに暮らしていたことを、誰にともなく主張していた。
◇◇◇◆◇◇
この町の姿を変えてしまったのは、冬の厳しさでもなければ、神の怒りでもなかった。
空気を切り裂く異音と共に放り込まれた砲弾と横殴りの雨粒のように降り注いだ鉛の弾だった。
ヒュ・・・・・・。
どこからか、風が異音を運んできた。
ドッ、・・・・・・ィイイン。
何かが落ちる音が遅れて耳に届いた。ゆっくりとゆっくりと、地面が揺れ動いた。
あれは、何を力にして飛ぶのだろうか。
政治に対する意見の食い違いだろうか。
宗教に対する信条の相違だろうか。
あるいは、人種の違いによる偏見によるものだろうか。
それとも。
また一つ、砲弾が飛んだ。
ヒュ・・・・・・ウウウ・・・・・・。
ズウウン・・・・・・。
◇◇◇◇◆◇
穏やかな夕日が町の上から消え去ろうとする頃、壁の内側に男女の姿が現われた。
あれは、少年と少女の両親だろうか。子供たちを探すわけでもなく、自分たちの身を隠すわけでもなく、二人は悠然と窓辺に佇んでいる。
あの二人はこの町のどこかに隠れていたものが戻ってきたのではない。また、既に町の大部分を飲み込んでいる夜の闇から現れ出たものでもない。二人は、まるで窓から差し込む夕日の粒子に投影されているかのように、橙色の光の中にどこからともなくその姿を現わしたのだった。
顔をくっつけるようにして窓から外を眺める二人には、この町の戦いによって破壊された惨状は見えていないのだろうか。男の顔には一日働き通した疲れと達成感が、女の顔には家族が無事に夜を迎えることができることへの感謝が溢れていた。
夜を迎えて眠るためだろうか、男はカーテンを閉めようと手を伸ばした。
その時。
ヒュオォウッ。
一際鋭く大きな音が辺りに響いたかと思うと。
ドオオウンッ。ドドドッ・・・・・・。
これまでになく大きな揺れが、石壁の周囲を襲った。
直ぐ近くに着弾したのだ。
石壁の頭に乗っていた石材がバラバラッっと地面に零れ落ちた。
ユラァユラァと石壁が前後に大きく揺れた。
そして、石壁は男と女の側へ大きく傾き、倒れた。
男と女は石壁に押し潰されてしまったのだろうか。いや、二人は石壁が自分たちの方に倒れてくることにすら、何の反応も示さなかった。男はカーテンが掛かっていたであろう虚空へ手を伸ばし、それを閉めた。女はその肩に手を添えて立っていた。
石壁はその二人をすり抜けて、大地へと横倒しになったのだった。
◇◇◇◇◇◆
この家の最後の建材として立ち続けた石壁は倒れた。
夕日により暖められたその肌は、地面に叩きつけられ、砕け、冷たくなっていった。
それに連れて、男と女の影も薄れていく。子供たちが眠る様子を確かめに行くのだろうか、幸せそうな笑みを浮かべたまま、町に満ちてきた夜の闇に溶けていく二人。
「朝起きてカーテンを開け、夜眠るためにカーテンを閉める」
単調な生活ではあるが毎日を力強く生きる住人たちと長い年月を過ごしてきたその家は、幸せだった。
そして、石造りの家が見ていた夢は、今、終わった。
(了)