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月の砂漠のかぐや姫 第344話
「すみません、冒頓殿。ちょっと、理亜の様子を見てきます」
まだ冒頓への報告は終わってはいなかったのですが、羽磋はそれを中断して理亜の元に向かいたいと話しました。
理亜の悲痛な泣き声は冒頓たちにも聞こえていましたし、「母を待つ少女」やサバクオオカミの奇岩が消えたいま、羽磋の報告を急いで聞く必要もありません。冒頓は羽磋に対して頷いて見せました。
サッと頭を下げて、理亜の元へ行こうとする羽磋。彼が横を通り過ぎる際に、冒頓が小声で尋ねました。「王柔はどうしたんだ?」と。先ほどから理亜は「オージュ、オージュ」と泣き声をあげていますし、彼だけがまだ地上へ戻って来ていないので、きっと何かがあったのではないかと推測したのでした。
羽磋は自分と理亜を地上に送り出してくれた時の、濃青色の球体の様子を思い出しました。外殻の至る所に傷が生じ、そこから煙のようなものが漏れ出ていた球体。「母を待つ少女」の母親が転じた姿であるそれは、自分の娘を救うために、最期の力をかき集めて、羽磋と理亜を地上へ送り出したように思えました。そして、まだ王柔は地上へ戻ってきていません。おそらくは、もう・・・・・・。
羽磋は黙ったままで、小さく首を振りました。
それは、近くにいる冒頓にしかわからないほどの小さな仕草でしたが、彼には羽磋の思いが確実に伝わっていました。「もう、王柔が地上に戻って来ることはないだろう」と。
「そうか、わかった。早く、お嬢ちゃんのところへ行ってやってくれ」
一瞬だけ目を伏せた冒頓はそう早口で羽磋に伝えると、次の瞬間には顔を上げて、護衛隊の男たちの方へ指示を出しました。
「よおし、潮時だ! ひとまずヤルダンの入口にまで戻るぞ! 羽磋の話は、そこで待たしている交易隊の連中も交えて、ゆっくりと聞かせてもらおうぜ。怪我している奴は、しっかりと応急処置をしておけよっ」
羽磋の話を聞こうと集まっていた護衛隊の男たちは、自分たちの馬を呼び寄せたり鞍を付け直したりと、帰路の準備を始めました。その中でも、苑は鞍の上の当て布や積んでいる荷物の位置を、しきりに調整していました。まだ細かな命令は下されていなかったのですが、馬を持たない羽磋と理亜を連れてここを離れる際には、誰かが自分の馬に彼らを乗せないといけない。それだったら、仲の良い羽磋を自分の馬に乗せたい、と思ったからでした。
冒頓の元を離れた羽磋は、勢い良く理亜の方へ走り出しました。でも、彼女に近づくにつれてその速度は遅くなりました。そして、理亜に向かって走るのではなくて歩くようになりました。理亜に近づくにつれて、彼の足取りは重くなっていくのでした。
始めの頃のように周囲に向かって大声を出したりはしていませんが、理亜は背中を丸めて泣き続けており、すぐ後ろに立った羽磋の方を見ようとはしません。そもそも、悲しみの世界に閉じこもってしまった理亜は、彼が傍ら来たことに気付いていなかったのかもしれません。
「理亜・・・・・・」
こんな時にどのような言葉を掛ければいいのか、羽磋には全くわかりませんでした。それに、地下から地上へ戻る際に、理亜が嫌がって時間を無駄にすることを避けるために、「王柔殿も後からくるから」とその場しのぎの言葉を発してしまった自覚が、羽磋にはありました。そのことが、羽磋の足取りを重くし、彼が理亜に慰めの言葉を発することを難しくした、大きな原因なのでした。
「理亜・・・・・・」
羽磋は、もう一度理亜に呼びかけました。その声は理亜の背中と同じように、細かに震えていました。
いまでも、彼女を慰めるためだけに思ってもいないことを言うことはできます。つまり、こう言うのです。
「大丈夫だよ、理亜。濃青色の球体が力を取り戻したら、すぐに王柔殿を地上に戻してくれるよ」
でも、そう言えばきっと、理亜はこう尋ねてくるでしょう。
「いつ? いつ、オージュは帰って来るノ?」
その問いにどう答えればよいのか、羽磋にはわかりませんでした。
先ほど冒頓が撤収準備の指示を出していましたから、彼らは程なくここを離れることになります。もしも、それまでに王柔が戻ってこなかったとしたら、ここを離れることを理亜はおとなしく受け入れるでしょうか。
もう理亜は、人並み外れて物わかりの良い子供ではなくなり、普通の子供の心を取り戻しているのです。きっと、ここに残って王柔を待つと泣いて暴れる理亜を、無理やり馬に乗せるしかなくなるでしょう。それは、彼女の心に大きな傷をつけることになると、羽磋には思えました。
それに、羽磋自身が、地下を離れる時の状況から見て、濃青色の球体にはもう力が残っておらず、王柔を地上に戻すことはできないと、認識しているのです。それを「大丈夫だ」なんて・・・・・・。いくら小さな子供相手とは言え、地下世界の困難を一緒に潜り抜けて来た理亜に対して、もう羽磋はその場しのぎの誤魔化しをしたくはありませんでした。
「理亜・・・・・・」
羽磋は、さらに理亜に声を掛けると、彼女の小さな背中にそっと触れました。
ビクッと、羽磋の掌を理亜の背中が、強く押し返しました。
なんとなくなのでしょうが、理亜には誰かが自分に触れて何かを語りかけることがわかっていたようです。でも、その何かを自分は聞きたくなくて、誰かが自分の身体に触れることを、とても恐れていたようでした。
「イヤダッ!」
理亜の身体を、これまでにない激しい感情が走り抜けました。そして、彼女の口から、王柔を求める叫びが上がりました。
「オージュッ。 オオージュウッ!」
その瞬間です。まるで、理亜の叫び声に呼応するかのように、地面に大きな振動が生じたのでした。