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月の砂漠のかぐや姫 第341話

 自分の言いたいことが確かに羽磋に伝わったと感じた理亜は、再び由が姿を消した大きな亀裂の方へ向き直りました。由を飲み込んだ暗い穴を見つめる理亜の面持ちは、とても真剣なものでした。実のところ、彼女はそこに何らかの変化が生じてくれないかと、心の中で精霊に祈りを捧げながら見つめていたのでした。
「おい、おい、羽磋よ。お嬢ちゃんは、どうしちまったんだ。砂岩の像から元に戻った女の子が、俺たちにつかまるぐらいならいっそと思ってあそこへ飛び込んじまったのは、悔しいが仕方がねぇ。だが、それを悔しがるのは俺たちの方で、お嬢ちゃんの方じゃねぇはずだ。それなのに、お嬢ちゃんは、あの女の子のことが、えらく気になっているようだが」
 理亜の態度を見て、冒頓は傍らにいる羽磋に問いかけました。
 あれほど大きな騒ぎがあったのですから、それが一段落したらすぐに、小さな理亜は馴染みのある羽磋の所に寄って来ると思っていたのです。それなのに、一度は羽磋の顔を見たものの、彼女はあの亀裂の方に向き直って、ジッとそれを見つめ続けているのです。冒頓にはそれがとても意外なものに思えたのでした。
 羽磋が「理亜と『母を待つ少女』の奇岩は、心を分け合っているのではないか」との考えを話したのは、川に流されて地下世界に落ちた後であり、その相手は王柔でした。つまり、それを聞いていない冒頓にとって、理亜と「母を待つ少女」の奇岩の関係は、土光村を出る時に持っていた「それらは同じ時期に起きた不思議な現象なので、何らかの関係があるかもしれない」という考えから、進んでいませんでした。
 それに加えて、羽磋たちが地下で何を見て、どのようにして地上に戻ることができたのかを、冒頓はまだ知らされていませんでした。彼には、「ヤルダンの台地の下に川が流れ込んでいるのだから、きっとその水は地下を通り抜けているのだろう」というぐらいの認識しかありませんでした。
 ヤルダンの地下に青い水を湛えた大空間が広がっていることなど、彼が知る由もありませんし、ましてや、何本もの石柱に支えられた空間に濃青色の球体が浮かんでいることなど、想像をしたこともありません。当然のことながら、その濃青色の球体が「母を待つ少女」の昔話に出てくる母親が変化したものだと言うことも、彼は知らないのでした。
 ですから、由の行動を見た冒頓が考えたのは、「あいつは、俺たちにつかまるのが嫌で、亀裂に飛び込んで自死したんだろう」ということでした。そして、由が消えた亀裂を、理亜が真剣な面持ちで見つめ続けるのを見て、「たいした関係も無いだろう女の子が飛び込んだ穴を、どうしてあんなにも必死になって見つめ続けるんだろう」と疑問を持ったのでした。
「ああ、そうだっ。冒頓殿は知らないんだった! 早く、自分が見たことを話さないと」
 冒頓の考える方向と自分の考える方向とがあまりにも違ったことで、自分と冒頓の現状に対する理解に大きなズレが生じてしまっていることに、羽磋ははっきりと気付きました。
 ほんの数日前まで、羽磋は冒頓と行動を共にしていました。彼と一緒に小野の交易隊を護りながら土光村に着き、共に王花の酒場でヤルダンで起きている異変の話を聞き、そして、ヤルダンを通り抜けて吐露村へ向かう羽磋と、彼を護りながら「母を待つ少女」の奇岩を探す護衛隊の隊長の冒頓は、肩を並べて土光村を出てきたのでした。
 それなのに、崖際の道でサバクオオカミの奇岩たちに襲われたあの日から今日までの間は、羽磋と冒頓はまったく違う世界にいたのでした。
 羽磋はヤルダンの地下に広がる大空間の中で、精霊と人の世界が交じり合ったような、実際に目で見て身体で感じなければとてもそれがある事を信じられないような、不思議な世界を経験しました。
 その世界での経験は、とても数日の出来事とは思えないほど濃密なものでしたから、その中で必死になって活動していた羽磋の心にはその色が強く浸み込んでいて、相手も自分の世界にいて同じことを体験していたかのように、ついつい錯覚をしてしまうのでした。
 それでも、冒頓の疑問を耳にすることで、羽磋は思い出しました。自分たちが地下で何を見て、どのようにして地上に戻って来たのかについて、細かに説明しなければいけないことをです。
 羽磋が地上に戻ってきた時は、冒頓と「母を待つ少女」の奇岩とが一騎打ちをする、正にその時でしたから、ゆっくり話をする余裕などありはしませんでした。でも、いまは違います。
「冒頓殿、実はですね・・・・・・」
 話したいことがたくさんありすぎて、何から話すべきか自分でも決められないままでしたが、羽磋は自分たちが地下で見たことなどを、ゆっくりと話し始めました。冒頓の方も、ときおり質問の手を挟みながら、興味深そうにそれに耳を貸すのでした。
 突然地下から飛び出してきた羽磋が冒頓に何かを話し始めたのを見るや、遠巻きにして見守っていた護衛隊の男たちも、彼らの傍へ集まってきました。冒頓だけではなく、彼らも羽磋たちが崖下に落下してからどうなったのかを、とても気にしていたのです。そして、男たちの先頭に立って羽磋の元に走ってきたのは、喜びの涙で頬を濡らしている苑でありました。





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