月の砂漠のかぐや姫 第321話
長い年月が過ぎ去る間に、たくさんの交易隊がヤルダンの交易路を通り抜けました。彼らは「ヤルダンの中に奇妙な形をした砂岩の塊がある。それは、まるで母親を待っている子供のようだった」と言う土産話を地元に持ち帰り、それが月の民全体に広がって行くのでした。
交易隊員たちの見立ては間違ってはいませんでした。何故なら、その長い年月の間も、由は待ち続けていたのですから。あの大地の亀裂に飛び込んで消えてしまった母親が、いつか再び自分の元を訪れ、今度こそ差し出している手を握ってくれることを。
一方で、「母を待つ少女」の奇岩に水を注いだ少女理亜も、遠い西国からこの地へ連れて来られる間に、母親を病気のために亡くしていました。いまよりももっと小さかった頃の事ですから、理亜はその時の細かなことまでは覚えていません。ただ、大好きなお母さんがどんどんと弱っていき、どれだけ隊員に怒鳴られても歩けなくなってしまったこと、最後には繋がれていた縄を外されて、道の上に置き去りにされたこと、自分はお母さんとずっと一緒にいたかったのに、手首を繋ぐ綱にグイグイと引っ張られたせいで、泣きながら他の奴隷たち一緒に進まなければならなかったことは覚えていました。
母親を亡くした後も、月の民の国への長い旅は続きました。理亜の周りには、彼女と同じように綱に繋がれた大人の奴隷たちがいましたが、助けてくれる者は一人もおりませんでした。また、月の民へと連れていかれる奴隷の中には子供の奴隷もおりましたが、理亜と同じほど小さな子はおりませんでした。たった一人の家族、自分を守ってくれる家であり、温めてくれる衣服でもあった母親がいなくなってしまった理亜は、交易隊が連れる奴隷たちの中で、心の底からの孤独感を味わっていました。
「お母さん、お母さん・・・・・・。どうして、どうして、あたしだけ・・・・・・」
理亜は涙を流しながら、異国の言葉で何度もそう繰り返すのですが、それに応えてくれるものは、後に王柔に会うまでは誰もおりませんでした。
理亜が連れられていた交易隊が西国から月の民の民の国内へ入ってしばらくすると、ヤルダンを通り抜けるための案内人として王柔が雇われました。その頃には理亜も少し大きくなっていて、片言ではありますが、月の民の言葉を理解し、しゃべれるようになっていました。
王柔は、奴隷として連れられていた理亜の事を常に気に掛けてくれ、彼女が病気になって置き去りにされることになった時には、「この先の村には、王花さんと言う人がいる。僕のお母さんみたいな人だ。きっと、理亜のお母さんにもなってくれるよ」とまで、言ってくれました。この言葉は、熱に浮かされてぼんやりとしていた理亜の耳にもスッと入ってきて、それがフラフラとする彼女の身体を支えてくれました。
そうです。似ているのです。
いまでは「母を待つ少女」と呼ばれている由と、王柔たちから「理亜」と呼ばれるようになったジュリアは、共に小さな時に母を失った少女なのです。そして、その時の状況があまりにも辛いものであったことから、「どうして自分だけがこんな目にあわなければならないのか」と、心に深い傷を負った者同士なのです。
精霊の力が満ちるヤルダンを通り抜ける交易路の傍らで、月が高く上る深夜に、ゴビの砂漠では命と同じ価値があるとされる「水を注ぐ」と言う行為がなされました。
でも、これらの条件がそろっただけでは、「母を待つ少女」の奇岩に宿っていた由の心の半分と、水を注いだ理亜の心の半分が入れ替わって混ざり合うことはありませんでした。活発に働き出した精霊の力によって、「母を待つ少女」の奇岩が歩き出したり、理亜の病気が癒えたり、人に触れられなくなったりすることも、ありませんでした。
それらが起きた一番の理由は、由と理亜という大きな精霊の力を帯びた二人の少女、「どうしてあたしだけ!」というジクジクとした傷を、未だに心の奥底で持ち続ける者同士が、「お母さん」を捜し求めるという同じ状況の中で出会った、ということだったのでした。
物語は、地下に広がる大空間の中に戻ります。
理亜がポツポツと語るあの夜の出来事を聞いて、王柔は、羽磋は、そして、「母を待つ少女」の母親は、それぞれの絵を心の中で思い描きました。それぞれが持つ情報には差異があり、それぞれの立場も全く違いましたから、その心の中に描かれた絵も全く同じとは言えませんでした。
でも、ひんやりとした地下空間の丘の上に集まる者たちは、一つの点については共通の認識に達していました。
やはり、この場にいる理亜の身体の中には、「母を待つ少女」とも呼ばれる由の心の半分が入り込んでいて、それが理亜の身体と心に不思議な影響を与えています。そして、その理亜の心の半分は、由の現在の姿である「母を待つ少女」の奇岩の中に入り込み、そこに宿っている由の心の残り半分と混ざり合って、砂岩の塊である身体に常識を超えた影響を与えているのです。
「由っ! お前は由なんだね・・・・・・」
真っ先に声を上げたのは、濃青色の球体に姿を変えている「母を待つ少女」の母親でした。どこが正面かはっきりとしない姿ではありましたが、その思いが赤い髪を持つ少女にまっすぐに向けられているのは、間違いありませんでした。
「そうだヨ、お母さんっ。由だよ、由なんだヨ・・・・・・」
これまで母親は「由は黒髪だった。そんな赤い髪色の少女が娘であるはずがない」と言い続けてきましたが、とうとう、理亜の中に娘の心が入り込んでいることを、受け入れたのです。
母親の言葉に答える理亜の語尾が、震えていました。理亜であって由でもある彼女の心持ちがどの様なものかは、他の者には正確に測ることはできません。でも、ずっと「お母さん」と呼び掛け続けてきた相手から、ようやく娘の由だと認められたのです。嬉しさと安堵の気持ちが胸の中に膨らんできていることは、間違いありません。この地下世界に落ちてから、どれだけ大変な目にあっても涙で濡れることのなかった彼女の頬を、いまは温かな涙が濡らしていました。
「良かった、良かったなぁ、理亜」
王柔も溢れ出る涙を手で拭っていました。
自分が「濃青色の球体は危険だから逃げよう」などと言っていたことは、すっかりと忘れてしまっているようで、ようやくわかり合えたかのように見える理亜と濃青色の球体を祝福してあげたいという気持ちでいっぱいのようでした。