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結刃流花譚 第2章 ~ 過ぎし春の忘れ音 ① 幻影 ~
第1章を修正中の状態で、順番が前後してしまい申し訳ありません。ここから清春の1年前の記憶を辿る第2章となります。表現に四苦八苦しておりますが、続きも読んでいただけますと幸いです。
清春が目を開けると、その視界には安堵の表情を浮かべ両横から覗き込む双子の妹である天音と4つ離れた異父弟の樹の顔、そしてその間に覗く見慣れぬ天井――――――と何故か一瞬思われた、見慣れた天井が映し出された。
「清春......! 」
「お兄ちゃん......! 」
心做しか少し幼くなったように見える天音と樹が同時に清春のことを呼ぶ。随分と心配されていたようで、その声色からは2人の安堵が伝わってきた。
この光景を清春は覚えていた。約1年前、永陽歴1864年4月9日。双子が14歳を迎え、忘れることのできない痛みを刻んだ日の翌日。この先、どれだけ月日を重ねても、遠い日の記憶だと言える日は来ないのではないかと思えるほど、思い出す度に心の疼く記憶。不安に押し潰されそうになりながら、罪悪感に苛まれながら、現実と向き合いたいと願い、今この場所を選んだ自分を自分たらしめるすべての始まり。どうしてまたこの日にいるのか、何が起こっているのか分からず周囲を一瞥する。
詳らかに覚えているわけではないが、わかる範囲ではあの日と何も変わらない。どのようにしてここに辿り着いたのか、混乱しかけた記憶を整理し、渦を描くように鏡面を歪ませた鏡のことを思い出す。
近衛に言われた通りに鏡の前に座り、そこに映る場景を見つめていたはずだった。1度意識が遠のき、気付いた時にはここにいた。鏡が用意された時、近衛は過去を覗くと言っていた。
鏡の力と近衛の術によるものだというほとんど確信に近い憶測で、清春はこの状況について考える。過去に連れてこられたのか、過去と同じ空間が何らかの力で作り出されたのか、今現在、過去の自分自身の中に入り込み、記憶を持ったまま過去をもう一度体験しているという表現が近い状態にある。
物事の捉え方も当時感じたものがそのまま繰り返されているようだが、記憶は残ったままで今の自分の感情も混ざってくるため、妙な感覚だ。
近衛の姿はどこにもない。平穏だった、それなりに幸せだと感じていた日常が突然変わってしまった昨年の春が、時間が巻き戻されたかのように、記憶にあるよりも鮮明に再現されている。
清春がこれを過去の出来事だと認識していることを除けば、すべてがあの日のままだ。
泣き止んで随分経っている樹の頬には拭い切れないまま乾いてしまった涙の跡がまだ残っていた。当時の想いも重なり、心配をかけてしまつまたことに対し申し訳ないと強く思いつつも、共に命の危険に晒された2人の無事を確認できたことで清春の表情は自然と緩む。しかし同時に、最期の挨拶をきちんと告げることさえできなかった両親と、自分たちを逃がす為に刀を振るい続けた姉のことを考え続けていることで、心が押し潰されそうにもなっている。天音と樹が生きていることを喜びたいが、そうすることによって生まれるであろう犠牲となった者たちへの罪悪感と、心の底からはそうできないことに対する妹と弟への罪悪感が、比較できない重みを持って清春の中に影を落とす。心はどれだけの感情を同時に持つことができるのだろうか。どのように感じるのが正しいのかわからないまませめぎ合う名前のつけられない複数の感情に支配されていく。
じっと清春を見ている2人にそれを悟られないよう落ち着いているふりをして、笑顔を作り起き上がろうとすると、背中に鈍い痛みが走った。
「痛っ......」
顔を顰める清春を天音が慌てて押し留める。前日に負った怪我のことを忘れ、この日同じ行動をとり、今のように止められたことを思い出した。当時の感情が当時と同じように湧き上がってくるだけでなく痛覚までもが鮮明だった。
「全身怪我だらけなんだから無理しないで。ここは大丈夫だから」
天音は清春と同じ薄花色の瞳で清春を真っ直ぐに見据え、少しでも楽な体勢をとらせようと、軽く支えるようにして清春が再び横になるのを手伝う。樹はその横で少し狼狽えていたが、清春が穏やかな表情を取り戻すと、座り直しおずおずと話し始めた。
「......お兄ちゃん、痛み、大丈夫?
昨日のこと覚えてるかな......? 僕たち、逃げてる時に山の中で会った人に助けてもらったんだよ。ここはその人の家なんだけど......。
僕が足を滑らせて川に落ちかけて、お兄ちゃんが掴まえてくれたけど、お兄ちゃんも落ちそうで、僕には見えなかったけどその後ろでお姉ちゃんがつなぎ止めてくれてて、それでも落ちかけて、その人が助けてくれて......お兄ちゃん、途中で気絶しちゃったけど......」
ほとんどは当時の清春の記憶にもある場面であったが、樹は清春が意識を失う前の出来事を順を追って説明しようとする。その言葉は分かりやすい説明というには不十分であっても一生懸命で、聞いているうちに少し穏やかな気持ちになり冷静さを取り戻すことができた。
そして、清春の記憶にはない出来事、意識を失う直前に見た人物に助けられたらしいことを理解する。今はもうよく知っているはずの人物を一瞬見ただけのように思うことにも、今当然のように知っていることを理解するということにも違和感があるが、その感覚に戸惑いながらも、当時の自分の行動と感情に従って時は進み続ける。
頭だけ動かしながら、今一度、四畳半の部屋を見渡す。ここは助けてくれた人物の家の一室なのだろう。小さな箪笥と行灯が片隅にあるのみで、必要以上のものは置かれず端然としている。
「その人、庵さんっていうんだけど......お姉ちゃんの知り合いみたいで......」
言葉を整理できないまま、少しずつ樹が続ける。
お姉ちゃん、という言葉の示すのは、天音ではなく自分たちを守り戦い続けてくれた姉の方だろうということは当時聞いた時から確認をとらずとも自然に感じとっていた。
安否の分からない姉に直接訊く術はないが、姉の知り合いと聞かされた人物に助けられたのも姉の図らいがあってのことなのだろうか。それともただの偶然なのだろうか。現在は知っているはずなのに当時と同じ疑問が生まれる。どちらにしても、ひとまずお礼を伝えなくては、と思った。
「お兄ちゃんのこと、運んで手当てしてくれたのもその人で......僕たちの手当てもしてくれたんだけど......」
伝えるべき内容を探しながら、言葉は少しずつ並べ続けられる。一旦落ち着きを取り戻し、兄の意識が戻ったことに安心してはいるが、幼い心に一度生じた恐怖は決して簡単に消えるようなものではなく、樹の声はまだ微かに震えていた。
「お兄ちゃんも、目を覚まさなかったら......、どう、し、よっ、て――――――――」
充分過ぎるほど一生懸命になって話し続けていたが、不安な気持ちを紡ごうとすると、言葉は消えゆくように途切れてしまう。
樹の心に渦巻く感情も、清春が感じているものと同じところも違うところもある、1つの表現だけでは片付けられない重く悲しく苦しいものだろう。取り乱すことはなくとも、本当は今も泣き出したいのかもしれない。血の繋がった両親を一気に失い、姉の安否もわからぬまま、体力のない小さな身体で必死についてきた樹の疲労が心身ともに相当のものだったことは想像に難くない。当時まだ10歳の彼にとってあまりにも悲惨な現実は、否応なく受け入れるしかない事実として容赦なく突き付けられた。
目の前で倒れた両親の傍で悲しむ時間も与えられず逃げることを余儀なくされ、樹自身、死が頭を過(よ)ぎるような恐怖を体験した。山の中を駆ける間に何度も木や草花の枝葉が掠め、繊細なその肌には小さな傷が数多くできており、川に落ちかけた時には崖を吹き抜ける冷たい風に晒され、身体は冷え切り、細く柔らかい栗色の髪も痛み、本来の艶を失っていた。
その姿は、推し測られる心の傷と相まって、あまりにも痛々しい。
しかしそれでも大きな怪我を負わずに済んだことは不幸中の幸いだったのかもしれない。手当もしてもらえたとのことで、数日も経てば身体の傷だけは癒えるだろう。
清春は右手を伸ばし、畳の上の樹の細く白い手にそれを重ねる。兄の冷たい手の温もりは、言葉を紡げなくなってしまった樹の心を少しだけ軽くした。
重ねた手はそのまま、清春は首だけを左へと動かし、清春を挟んで樹と向き合う形で座る天音のほうへと目を向ける。その瞳にも清春と同じ、安堵と深い哀しみの複雑な色が浮かんでいた。
「奏姉さん、何かあった時には私たちの支えになってほしいって、庵さんに前からお願いしてくれてたみたい」
ほんの一瞬間を置き、できるだけ重くならないよう意識した口調で、真っ直ぐに清春を見返し、なんとも言えない笑みを浮かべて天音は告げた。
いつからかわからないが、姉は自分の身に何かが起こる可能性があることを想定していた。そしてそれを悟られないように、清春、天音、樹を守ろうとしていた。
天音の言葉を聞きながら、樹は俯きがちになり、その顔を曇らせる。2人の表情が、何度でも、清春の心を疼かせる。
「......そっか」
それ以上言葉が出てこなかった。
何か続けなくては、と思った。だが、心を押し潰されてしまいそうなほどの不安や哀しみを抱えながら、同じようにそれを抱える誰かにかける言葉には、何を選ぶのが適切なのか分からなかった。どんな言葉を紡いだとしても現状を変えられないなら、感傷に浸り続けるより、一時の慰めで構わないから、せめて少しだけ、2人の気持ちを紛らわせたいと思った。
目を背けるつもりはない。だが2人の心を少しでも和らげたいがために、当たり障りのない会話に切り替えようと考え話題を探す。しかし、今この状況で、自分自身心に余裕のない状態では思いつかない。無理やり話すと不自然になってしまいそうで、声が震えて2人の不安を煽ってしまいそうで、言葉を発するだけのことが、こんなにも難しい。
目を泳がせているうちに、再び天音と目が合う。
すると、清春の考えていたことを動揺もすべて含めて理解したかのように、気持ちだけで充分だとでも言うかのように、天音はもう一度目を細める。確実に傷付いている。が、哀しみもすべて受け入れるような、寂しくも穏やかな目をしていた。
静まり返っていた水面に雫が1つ落ちてきたような感覚を覚え、視線を移す。
樹はもう寂しさも不安も口には出さず、自身の手に重ねられた清春の手を見つめ、溢れそうな感情を抑えながら、彼なりにそれと向き合おうとしているように見えた。
思い遣りも心配も、時に一方的だ。
改めて妹と弟が静かに現実を受け止めようとしている姿を見て、清春は2人の心を理解できていないまま、独り善がりに彼らを守ろうとしていたことに気付いていた。一時的な安寧を与えたくて、気持ちを紛らわせるために続ける言葉を無理やり探そうとしていた自分が愚かにも思えた。目を逸らそうとなどしていない2人に、傷を塞ぐことなど望んでいない2人に、誤魔化したり取り繕ったりする言葉は必要なかった。
重く遣る瀬なくとも心地悪くはない必要とされた沈黙が、3人の間にもう束の間流れ続ける。お互いの心を慮りながら、それぞれが現実を噛み締め、負った傷を受け入れる。実際よりも長く感じられたその時間の中で、言葉よりも大切な、3人だけの哀しみが行き交っていた。どれだけ辛くとも、ずっと抱えて生きたい哀しみだと思った。
「......清春が起きたこと伝えてくるね」
少しの間を置いた後、天音はそう告げて静寂を破る。そのままそっと立ち上がると、1丈程先の障子戸を人1人が丁度通れる程度に控えめに開き、その間に消えるように部屋を後にした。少し寂しいようで、ありがたくもあった。
天音のいた空間を見遣りながら、また前日のことが脳裏に蘇る。突然の大きな音と共に道場が壊された瞬間、天音も飛んできた木片で手足を負傷していたはずだが、普段と変わらない軽やかな動きを見る限り、その時の傷は深手ではなかったようだ。安堵の息は心の中だけでそっとついた。
清春は樹の手に重ねた自分の手の力を少し緩め、視線を移動させ、天音の出て行った方を見つめる。清春が頼み、樹の手で再び戸が開かれる。その間から見えた春の空は晴れ渡り、眩しすぎない光を降り注がせながら浮かぶ太陽はやや西へと傾いていた。
半日以上眠っていたのか――――――。
意識が途絶えたのが夜9つ頃のはずであり、現在はもう昼時を過ぎているとわかると、改めて天音と樹に心配をかけたことを申し訳ないと思い、礼を伝えるべき助けてくれた相手のことも考えながら、記憶を繋げるため、意識を失う直前のことをできるだけ鮮明に思い出そうとする。暗くてはっきりとは見えなかった、助けてくれた黒くて大きな何かと、その傍らに立つ人物。
「奏姉さんの知り合い、......か」
相手は恩人であり純粋に感謝したい気持ちが明確にあるが、どのような知人なのか、素性はわからない。妹も弟も思っているよりずっと強いのだと今の今思い知らされたばかりだが、やはり何かあった時には自分が守らなくてはという思いがある。姉から託されていたということが本当かどうか確かめる術はない。親切の裏に何らかの別の意図が隠されていないとは言いきれない。不本意であっても、心苦しくても、客観的な視点を持ち、少しは疑うべきかとも考える。そう考えた自分が嫌になるような後味悪い感覚を覚えたのは、相手のことを少なくとも当時よりはよく知る今の清春の感情があるからだった。こっそりと謝りたい気持ちになっても、今は清春の意図で何かを変えることはできないようで、当時と違う言葉が口をついて出ることはなかった。取り繕うのを忘れ難しい顔をしていた清春を、樹は無垢な表情で覗き込む。
「!! 悪い、大丈夫だよ」
慌てて伝えると、また兄として弟に向ける笑みを作り直す。今は最も守りたい者を守ることが最優先だ。痛みも不安もこれ以上増やさないようにしたいと思っていたのに情けない。
そうした幾重もの考えを巡らせていたところで、意識が朦朧とし、白い靄がかかっていくように徐々に前が見えなくなる。戸惑いながらも何もなす術はなく、流れに委ね、続きを待つ。
短くも長くも感じられた時間の後、やがてまた色のある鮮明な景色がその両目に明瞭に映し出される。過去に戻る前の本来の時間、天叢雲入隊試験の日に戻った訳ではないようだった。青く広がる空も飾らない素朴な障子戸も、先程までとほとんど変わらない。天音が部屋を出てから時間はあまり経っていないようだ。
同じ景色を見ていると、天音の消えた廊下の右側の方から歩いてきた人影が障子戸に映り、清春と樹が居住まいを正す暇もなく、開いていた戸の間にその姿を現した。
「失礼する」
顔をはっきりと見たのはこの時が初めてだが、背格好と雰囲気から意識を失う前に見た人物だということがすぐにわかった。男は敷居をまたいで部屋に入り、静かに清春の元へと近付いてくる。勝色の髪に、銀色の瞳。左右非対称の長めの前髪の間から覗く切れ長の目からは感情が読み取りづらく無愛想な印象を受けるが、敵意や悪意を感じさせるものではなかった。藍色の着流しは着崩されていたが、人柄が悪いのではなく、無頓着なだけなのだろうと感じられた。
男は清春と樹から少しの距離を置いて止まり、立ったまま再び口を開き、淡々と告げる。
「気付いたか。今お前の妹は白湯を用意している。傷が癒えるまで暫くここで安静にしているといい」
近距離で話す天音と樹との会話では気付かなかったが、横になったままの清春へ左上からかけられる声が実際の距離より遠くから聞こえているような聞き取り難さを感じた。違和感を覚え左耳を触ると、自身の耳の大部分が布で包まれていることに気付く。当時は傷の程度はわかっていなかったが、その時清春の周囲の音や声を拾っているのは右耳だけだった。
「耳が痛むか。
――――酷くやられたようだな」
後先のことを考える余裕もなく、もう動かない両親を前にして震えながら泣いている樹に向けて振り下ろされた剣の前に飛び出した瞬間が蘇る。鋭い一閃に恐怖を覚えたのは一瞬だった。弟は何がなんでも守らなければと必死だった。
咄嗟に顔を逸らし顔面に剣を受けることは免れたが、樹を後ろ手に庇った際に左耳につけられた傷は清春が思っていたよりも深かったようで、自覚すると徐々にその痛みが増していく。
「応急処置はしているが、一度診てもらった方がいいだろう。明日になってしまうが、医者を呼んである」
男が伝えると、その足元から足を3本持つ烏が現れた。正確には、ひとつの付け根から伸びた足が関節の辺りから3つに分かれているという表現が正しい。つぶらな瞳は黒曜石のような美しい光をたたえ、羽は艶のある漆黒をしている。嘴の傷は暗い夜に浮かび淡く輝く三日月を連想させる。
「そこの八咫烏がお前らの様子を知らせてくれた。名を杏という」
八咫烏は和久国(わくのくに)では目指す場所へと導いてくれる太陽の化身だと言い伝えられている。紹介され、杏は挨拶をするように小さく鳴いた。
「そうだったんですね......ありがとな」
清春の心からの感謝の込もった優しい声と眼差しに応えるように、杏は3本に分かれた足で同時に跳ねるようにして清春の顔の傍に寄ってきた。その姿を見て清春の目は更に細くなる。優しい気持ちになったまま、もう1人の恩人へと視線を戻す。1人と1羽の様子を眺めていた男も同時に清春と目を合わせる。
「庵だ」
「あ、お名前は樹と天音から聞いています。俺は清春といいます。
......お礼が遅くなってしまいましたが、庵さんもありがとうございました」
清春は横になったまま顔だけ持ち上げ頭を下げた。
そこで漸く庵は膝を折り、より明瞭に表情の見えるようになった位置から続ける。
「助けたのも杏だ」
清春は目を丸くして、視線を再び庵から杏へと移す。杏は小首を傾げるようにして清春を見つめ返す。
「杏は17尺くらいまでなら自由に大きさを変えられるんだって」
これまで口を挟まず静かに見ていた樹が口を開いた。少しだけ笑顔を取り戻し、少しだけ明るい声色になった樹の説明に、杏は得意げに翼を開き、その場で円を描くように舞った。一瞬柔らかな風が起こり、すぐに落ち着く。その風に乗って樹の微かな笑い声が響いた。
清春はもう一度、ありがとう、と呟く。命を助けてくれたことと、樹の気持ちを少しだけ和らげてくれたことに対しての感謝を、呟きながら噛み締める。杏はまた小さく鳴き、一瞬、その眼が少し細められたような気がした。
「お前らのことはお前らの姉から聞いて知っている。信じる信じないは勝手だが、俺はお前らの姉の仲間だ」
仲間、とだけ語られた関係性はとても抽象的だが、それが適切な距離感を表す言葉だと認識しているのだろう。庵の言葉は清春たちを騙すために告げられた嘘には思えなかった。言葉や声色は冷たくとも、その瞳は真っ直ぐだった。
そのように考えているところに、天音が台所から戻り、会話を遮らないよう開いたままの障子戸から静かに入ってきた。庵の横に膝をつき、湯呑みを乗せた丸いお盆を清春の頭の横に置く。清春の瞳に古色蒼然とした湯呑みとそこから昇る湯気が映し出される。
「白湯、飲める? 庵さんに台所借りて用意した」
「......悪い」
庵と天音の手を借りてゆっくりと身体を起こし、湯呑みを手に取る。先程まで樹の体温を感じていた清春の手に、今度はじんわりとした白湯の温かさが伝わってくる。どちらも春の陽射しのような温かさだと思った。一口飲むと、特別な味のない白湯であっても、喉に心地よく、一瞬の安らぎをくれる。
数口飲んで清春が湯呑みを置き、天音が腰を下ろすと、庵は話を再開する。
「あいつがどの程度自分の立場について話していたかは知らないが、お前らが望むなら、あいつのことは追い追い状況を説明する。俺はお前らの姉と同じ天叢雲の一員だ。今回の件は、そのことと関連している」
天叢雲――――――――。
姉が所属する自警団のようなもので、14年前に亡くなった父とその父に代わり育ててくれた継父も、以前はその一員だったと聞かされていた。主な役割は近くの村の治安維持。見廻りや揉め事の仲裁等、朧気に仕事内容の想像はついていたが、実際にその様子を見たことはなく、組織についても詳しくは知らない。清春たちの住んでいた村、雨鳴村(あまなりむら)から続く村を3つ越えた場所に本部があり、少々遠いため姉は毎日早朝に家を出ていた。早起きして見送ることのできた日には、毎回少しずつ違ってどれも美しいと思える朝焼けを見ることができた。姉が家にいる時間は不規則で、早く帰宅した日や不定期である非番の日には家の道場の手伝いをしていた。
実の父は道場の後継ぎで、師範の立場にありながら天叢雲にも所属し、兼業していたその任務中に亡くなったと聞いている。継父は実の父の同僚であり、幼馴染みだった。母と再婚する際に天叢雲を抜け、父の実家の道場を継いだ。すべて父の意向だったらしい。烏天狗である継父は、家族としてのそれぞれの立場については、清春と天音には最初から包み隠さず真実を伝えてくれていた。そして、血は繋がっていなくとも、父としてできる限りのことをしてくれていた。
継父から天叢雲に所属していた頃の父の話は諄々(じゅんじゅん)と聞かされていたが、具体的な仕事内容についての話はあまり聞かされることはなかった。
継父から語られたのは、父の言葉や技術の優れた父への尊敬の念がほとんどであった。仕事内容をあまり教えてくれないのは、個人の情報に触れることも多く、家族であってもそれを広める訳にはいかないからだと説明されていた。誠実な継父らしいと思い、清春たちからそれ以上踏み込んで聞くこともなかった。詳細は分からずとも、継父の話からは彼等の仕事がどこかの誰かの役に立っているものだということや、そこで大きな信頼を得ていた父の姿は伝わってきた。
年の離れた姉は継父の連れ子だった。何でも卒なくこなす、周りから頼りにされながらも決して驕ることのない、自分に厳しく他者に優しい姉だった。
姉が天叢雲に入隊したばかりの頃、危険な仕事なのならやめてほしいと天音が言っていたことがある。詳しい状況は知らないままだったが、任務中に父が命を落としてしまった仕事だ。慕っていた姉を同じように失いたくはなかった。
しかし、姉は大丈夫だと言って穏やかに笑うだけだった。個人の情報に触れない、話すことのできる範囲で聞かされる仕事内容からも大きな危険性を感じることはなく、やがて、父の仕事内容が危険だったのではなく、仕事中に何か不慮の事故に巻き込まれたのだろうと思うようになっていた。
姉の身を案じ、最初はしつこく頼んでいた天音もやがて何も言わなくなった。むしろ、毎日早くから出かける姉を支えようとするようになっていた。
詳細は曖昧ながらも、村のために動いていた彼らは、清春にとっても天音にとっても樹にとっても尊敬する存在であり、自慢の家族であり、いつしか密かな憧れとなっていた。
この人も姉さんたちと同じように村のために動いているのか――――――。
淡々と話す感情の読めない男だが、なんとなくわかるような気がした。
しかし、姉が隠し続けていた仕事の詳細、村が急に襲われた理由など、重要な部分が見えてこない。昨日の出来事との繋がりはわからず、心に引っかかるものがある。これから説明してもらえるのだろうが、苦い薬を飲んだ後のような、嫌な感覚を覚える。
「庵! 味噌と黄粉間違えた!! 」
勢いよく響く声と共に、部屋に色白の小柄な少年が飛び込んできた。無造作にも見える綺麗に切り揃えられた流れるような漆黒の髪に大きな金色の瞳。八重歯のせいもあり、顔立ちは幼く見える。丸い群青色のガラス玉が3つ連なり、その下に金色の三角形の揺れる耳飾りがよく似合っている。その背中には継父や姉、樹と同じ黒い羽根が生えていた。
少年の言葉には答えず、庵は彼を清春へと紹介する。
「妹と弟には先に紹介させてもらったが、こいつは居候の真光。見ての通り烏天狗だ」
真光は第一声を無視されたことはあまり気に留めず、滅多にない歳の近い客人と早く話したいという気持ちを全面に出し、清春の横にしゃがみ込むと、清春の顔とほぼ同じ高さから、無邪気な表情で話しかける。
「お前、目が覚めたんだな! 起き上がって大丈夫か? 」
「ああ、少し痛みはあるけど大丈夫だ。ありがとう」
「ならよかった! 今紹介してもらったけど、俺は真光。よろしくな! 」
真光は屈託のない笑みを浮かべ、改めて自己紹介をする。樹のようにしまってはいない背中の羽が浮かれる気持ちを表すように小さく動く。
手放しに喜べない状況であることは知っていても、同年代の友人の少ない真光にとって庵が清春たちを保護したことは嬉しい出来事だった。真っ直ぐ素直な挨拶をされ、自分が歓迎されていることが伝わってくると、清春もまた温かな気持ちを覚える。
「時枝清春だ。よろしく」
「天音と樹から聞いたけど、大変だったな。いや、大変、で済ませられるようなもんじゃないだろうけど、でも、助かって良かった。俺も両親を殺されて庵に拾われた身だけど、ここは大丈夫だから安心して休め。庵は強いからな! 」
あっさりと告げられた自分たちと共通する真光の重い身の上話に清春の表情は瞬時に曇る。悲しみがまた急に深くなり返す言葉に詰まってしまうが、それだけではなく、同時にその明るく澱みないもの言いに彼の純粋さと強さを感じ、幾分朗らかな気持ちにもさせられていた。
自分の発言を清春たちにどのように捉えられたかを気にする素振りは見せず色々話したそうにしていた真光だったが、彼が続けて口を開く前に横から庵が口を挟む。
「ところで先程の報告だが、何をどうしたら味噌と黄粉を間違える。黄粉の汁など客人に出せん。作り直してこい」
言及の言葉に本物の怒りや責める気持ちは一切込められていないものの、会話を止められ、真光はやや不満そうな表情を顕にして庵を見る。庵は全く動じず部屋を出るよう目線で伝える。大真面目に作っていた真光は何か言いたげな様子であったが、黙ったまま口を尖らせ、踵を返して元居た台所へと向かう。
「私、手伝ってきましょうか? 」
真光の姿が消えてすぐに天音が申し出るが、客人にそこまでさせられないと即座に断られた。
今の話からすると真光と3人の立場は同じはずだが、真光はこの家の勝手には慣れているように見え、既に身内扱いなのだろうと感じられた。少しでも助けてもらったお礼に何かしたいと考えていた天音だったが、押し通すことはせず素直に引く。
再び静かになった部屋の中、庵が話を戻そうとしたところで、意思を固めた清春の方から、最も気がかりで最も聞くのが怖かったことを訊ねようと口を開く。
「あの......」
庵は言葉を止めて清春を見る。清春は少し躊躇い、続ける前に不安な表情を隠さないまま天音と樹の顔を一瞥した。
天音は清春の訊こうとしたことがわかったのか、おずおずと一度首を縦に振る。
樹も空気を汲み取ったのだろう、固唾を飲んで揺れる瞳で清春を見つめ返した。
「あの、継父(とう)さんと母さんは、姉さんはあの後......」
向き合おうと心に決めていながらも、清春と同じように答えを聞くことを恐れ、なかなか触れることができないでいた天音と、不安でいっぱいだったに違いない樹の表情がさらに強ばり、一瞬にしてその場に緊張が張り詰める。
知ることを恐れてはいたが、聞かされるのを待つのではなく、自ら訊ねなければと考えていたのは天音も同じだった。樹の瞳は今にも泣き出しそうなものとなっていたが、確認をしなければ、事実を踏まえて考えなければ、この先のことを選択することはできない。それを理解している2人は何も言わず、押し潰されそうな心で事実を確認することを望み、言葉を待っている。
庵はこれまでと変わらない声で淡々と伝える。
「お前ら双子にとっての継父と母、樹の実の両親は、双子の父と同じ地に埋葬されることとなっている。奏の母の遺骨もそこへ移されるそうだ」
彼なりの配慮があってのことか、同情の言葉はなく、決定事項のみが聞かされた。3人が見たものを知っていて、態々伝える必要はないと判断されたのであろう事実、両親がもう戻ってこないことを、直接的ではない言葉で聞かせられ、改めて認識させられた。
昨日の今頃は、彼らの家にあった道場、黎明館に通う子どもたちと共に継父に稽古をつけてもらっていた。道場とその流派である巡灯真剣流(めぐりびしんけんりゅう)は人間である実の父の家に代々引き継がれ、父亡き後は彼の信頼する朋友である継父がそれを託されていた。
烏天狗の切り盛りする道場には妖、人間、その混血、様々な者が分け隔てなく通うことができ、15名程の生徒の皆が皆、継父のことを慕っていた。規模の大きな道場ではないが、清春はその雰囲気が好きだった。
継父からは将来道場を継いでほしいと言われていた。親友の大事にしてきたものを他でもないその息子である清春に後世に繋いでいってほしいのだと、幼い頃から父の家系に伝わる流派を教えられてきた。血に関係なく巡火真剣流を受け継ぐに相応しい実力を備えていた継父は、それにも関わらず、父と清春たちの間に入ってこれまで時枝家が伝承してきたものを、親と子の思いを繋いでくれていた。重荷になりすぎないよう選んで言葉をかけながら、清春に期待してくれていた。実の父を知る周囲の大人たちからは平凡な清春の実力を高く評価されることはなく、特別に筋が良いと自分で思うこともないものの、稽古自体が好きだった清春は漠然とその思いに応えるつもりでいた。
昨日は非番であった奏も一緒に稽古をつけてくれていた。まだ春を迎えたばかりだが暖かな陽光の差し込む道場での稽古のあとは汗だくになり、その場に座り込んで談笑が始まる。心地よい疲れを覚えるその場にいる全員のために持ってこられる母の手作りの水菓子が喉に与える潤いは特別だった。道場の片隅で見様見真似で竹刀を振っていた樹もおこぼれにあずかり、幸せそうにそれを頬張っていた。
たった1日前まで自然な流れのように繰り返されていたそんなひと時がもう訪れないということが信じられない。継父から剣を教わることも、母の水菓子を食べることももう叶わない。思い出のある道場はもう形を成していない。村全体の被害を把握しているわけではないが、昨日見た光景から考えると、そこで時間を共有していた道場の生徒たちもおそらくは――――――。
当たり前のように思えていた小さな幸せに満たされていた日々は、もう二度と手の届かない過去の夢と化した。
覚悟を持って訊ねたはずなのに、それを確認でき、受け止めているはずなのに、考えれば考える程後から湧き上がってくるやり切れなさは尽きない。どうしてこのようなことになってしまったのか、これからどうするべきなのか、突然にして残酷すぎる現実は、容赦なく彼らを悲しみの底へ突き落とそうとしてくる。
清春の表情を窺い、言葉を止めていた庵が再び口を開く。
「奏については今仲間が状況を確認しているところだ。襲われたのは村の一部のみだが状況が酷いらしく、時間がかかっているらしい。本人からの連絡はないが、何かわかれば此方へも知らされるようになっている」
「そう、ですか......」
姉の生きている可能性はすぐには絶たれなかったが、少なくとも自分から連絡の取れる状況ではないと考えられる。報告を待つことしかできない遣る瀬なさに、清春はまた心を押し潰されそうになる。
天音と樹も同じような気持ちなのだろう。黙って畳を見つめていた。今は隠されていない樹の右肩にのみ生える翼は、その心を表すかのように力なく萎んでいた。
杏は心配そうに動き回っていたが、やがて天音の傍に寄り添うようにして落ち着く。天音は力なく笑い、杏の頭をそっと撫でる。この時天音が姉の仕事への反対意見を貫けなかった昔の自分を責めていたことには気付くことができなかった。
他にも問いたかったことが心の中にはあったが言葉がまた出てこなくなり、庵の方からそれ以上何か話してくれる様子もなく、4人と1羽の間に暫くの沈黙が流れる。長いのか短いのか分からない時間を、やり場のない感情と共に刻んでいた。
「庵、清春、天音、樹!! 」
右手に1枚の紙を握り、左手には菜箸を持ったまま、真光が駆け込んできた。
「今、天叢雲の猫又がこれを届けに来て......ごめん、折りたたまれてすらなかったから、読んじまった」
皺だらけの紙を差し出す真光の顔が悲しそうに歪む。
覗き込む全員の表情が消え、樹が静かに泣き出した。天音は樹を抱き締めるが、その目にも涙が浮かんでいた。
予想はしていても、現実としてそれを知らされ、清春の心は更に深い悲しみと絶望で満たされていく。
手紙には、姉、奏が亡くなったことが確認された旨が記されていた。
****************
特別なことは望んでいなかった。
今の自分たちにとっての通常が充分に幸せで、そんな毎日が、当たり前のように続くと錯覚していた。
変わらないものなどないと知っていても、当然の如く繰り返されていた平凡で平和な日常がこんなにも容易く失われてしまうとは思っていなかった。
終わりは突然やってくる。永遠の夢はなく、逃れることのできない現が心の中に影を落とす。
現実は時に残酷だ。それを受け入れることを選ぶ時。それに抗うことを選ぶ時。必要とされる覚悟、手段、伴う痛み。押し潰されそうになる心が、生きる重みを知っていく。
読んでくださりありがとうございました。誤字脱字など、お気付きの点がございましたら教えていただけますと幸いです。