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結刃流花譚 第1章 ~残り香の調べ⑦ 願いの果て ~【編集予定】


    目に留めてくださりありがとうございます。読んでくださる方へ何かを届けることができると幸いです。




    やめて、許して、どうして、置いていかないで、痛い、苦しい、助けて、嘘つき、見捨てないで、憎い、裏切り者、返して、許せない――――。

    幾つもの感情が心に直接訴えかけてくる。東郷1人だけのものではない。誰の叫びかはわからないが、それらは強く哀しく心を疼かせる。個々の想いがそれに気付いてほしいと痛切に主張している。
    無意識のうちに目を閉じていた。ここには東郷と蓮悟、そして清春、真光、梅枝しかいなかった筈なのに、脳裏には無数の輪郭が浮かび上がっていた。まるで何人もの人々や妖がその場にいて話しかけてくるかのように、悲愴や憎悪に満ちた感情が幾重にも重なり響いてくる。 
   試みていたのは東郷との対話だが、聞いてしまった彼らの言葉も蔑ろにしたくない。自分に何ができるのかわからないまま、実際には声にはなっていない、流れ込んでくる想いのひとつひとつに耳の代わりに心を澄ませる。
    ぼやけて明瞭にはわからないはずの表情から押し潰されそうな程の深い苦しみが伝わってくる。彼らがどのような環境で、どのような目にあってきたのかはわからないが、想像を超えるものを抱えてきたのだろう。
   
    ここにいる彼らは今どういう状況なのだろう。清春からは触れられない。姿は曖昧で、実在しているのか脳や心に作用している何かが見せているのかもわからない。今いる筈の蓮悟の結界の中には何人も入れるほどの広さはない。それでも確かに、彼らはここにいる――――いや、彼らの心がここにある。
    必死に縋るように実体があるのかないのかわからない無数の手が清春の方へと伸ばされる。恐ろしさはあるが拒むことはしない。重なって聞こえてくるすべてを聞き取ることはできないが、可能な限り受け止めようとする。
    術にも異能にも詳しくはない清春は現状について1人で考えても結論を出すことはできないが、少なくともここにある感情は、捏造されたものではなく本当の誰かのものなのだと信じて疑うことはなかった。彼らの苦しみの源は何なのだろうか。何故このような状況に陥ってしまったのだろうか。誰か手を差し伸べてくれる者はいなかったのだろうか。

    未知の力に無防備に心を委ねるなど危険極まりない行動だが、清春は今はそれが彼らの為になるならばと考え心を砕こうとする。心の優しさや甘さの招くものは、その時その時で異なる。それに素直に感謝するものがいれば、つけ込むものもいる。清春の行動は、今回はやがて徒となる。

    頭に、心に、途切れることなく訴えかけてくる数多の感情はあまりにも強く、やりきれなさと申し訳なさに心がねじ切られるような感覚に捉われる。苦しい。苦しくて仕方がないが、それが自分の感情なのか、この想いの持ち主たちの感情なのかもわからない。伸ばされた手が、髪を、腕を、服を掴む。そのひとつひとつを握り返すことは叶わない。無力さをいくら感じても泣きたい気持ちになっても声は止まない。
    悲痛な想いを聞き続けることに耐えきることができず、次第に心ごと奪われていくように意識が遠のき、手放してしまいそうになる。

「飲まれるな! 意志を強く持て!」

    消えかけた蝋燭の火を繋ぎ止めようとする手の如く、清春の意識を包み込み守ったのは、聞こえた声と、その直後に肩に触れられた手のひらの感覚だった。思考力が一気に冴え、清春は閉じかけていたその瞳を見開いた。

――――庵さん?

    聞こえたのは確かに西賀の元へ向かった筈の庵の声だった。しかしその姿をすぐに捉えることはできず、再び開いた瞳に最初に映ったのはすぐ傍で苦しみ続ける東郷の姿だ。足の壊死はあまり進んでいないように見えた。背を丸め、首飾りを守るように両手で包み込んでいる。
    その姿の確認後、触れられた肩の方へ首を回すと、姿を見失っていた梅枝が、その眼差しを真剣に向けていた。清春へ安心感を与えようとする鳶色の瞳は幾分穏やかでもあった。

「梅枝さん……」

    梅枝を見失ってしまった後に経過した時間はわからない。開いた目に先程の者たちの姿が見えることはないが、悲愴感や苦痛に満ちた声は響き続けている。胸も痛み続けている。しかし、朧気となっていた自我を取り戻し、自分の両足で立つ感覚も戻っていた。痛みは自分自身のものだと確信できた。意志の宿る瞳を梅枝に向け返す。

「俺も見えるか?」
「真光?」

    声の方へと頭を回転させると、今度はすぐ傍に真光の大きな瞳を捉える。視線が合うとそれは半月よりも細く三日月よりも太い弧を描いた。見慣れている屈託のない笑みに安堵する。

「良かった、見えてるな。俺も一瞬誰も見えなくなって、――――――あ、東郷さんは見えてたんだけど、他は雲ばっかりで。声だけいっぱい聞こえてきて、頭ん中ぐちゃぐちゃでよくわかんなくなって、どっかに連れてかれそうな感じがして焦ったんだけど、梅枝さんが腕を掴んで引き戻してくれたんだ」

「私も同じで、一瞬あなた方を見失いましたが、幸いすぐに姿を捉え直すことができました。お2人の様子を見てまずいと感じたのですが、近付こうとするとこの雲のようなものに阻まれ少々時間を要しました。すみません」

    謝る梅枝へ、彼には非がないことを伝えようとして、そんな、と呟き少々たじろぎながら胸の前で広げた両手を小さく左右に動かす。
   おそらく2人の中にも清春が聞いたものと同じ声と見たものと同じ景色が流れ込んでいたのだろう。今は笑みを向けてくれているが、純粋で優しい心を持つ真光も相当辛かった筈だ。梅枝も見せている落ち着きの裏側で彼らの声に心を痛めているに違いない。
    漂う空気から重苦しさが消えることはない。しかし、独りではないと気付いただけで、その重苦しさと冷静に対峙することができていた。清春は視線を落とし己の手のひらを見つめる。入り込んできた感情をあのまま受け入れ続けていたならば、自分の心はどうなっていたのだろうか。
    何か特別な力を使ったのか、ただ触れただけだったのかはわからないが、梅枝のおかげで自分を取り戻すことができた。

「ありがとうございます」

    切々と感謝の念が湧き、自然に滲み出た感謝の言葉は呟きのような、しかし気持ちの込もった一言だった。
    それを聞いた梅枝は目を軽く伏せ静かに首を横に振る。

「お礼など恐れ多い。この影響をあなたが1番強く受ける状況を作ってしまったのは私です。彼らの苦しみの理由にも無関係ではありません。責任をとるのは当然です」

    視線を戻し、正された姿勢のまま、梅枝は状況の説明を続ける。感謝の気持ちが薄れることなどはないが、何も返せないまま聞き続けることとなった。

「東郷と話すため、彼の精神への干渉を試みました。これはどちらかの心が壊れてしまう可能性があるため人にはお勧めできない方法です。高度な技術と自分自身の心の強さが求められるもので、そもそも、他者の心は容易く触れていいものではないでしょう。
    ですので、話を聞くよう直接心に語りかけるだけですぐに止めました。そして、その心の生む雲の拒絶が弱まった瞬間、私が東郷の視界に入り言葉を続けるつもりだったのですが、懸命だったあなたが先に首飾りに触れてしまった」

    予期せぬ事態に焦ってしまったことも悔やむように梅枝は話す。清春と真光は、既に清春の手からは離れ、今はまた東郷が大事そうに持っている首飾りへと視線を移す。

「私が不用心でありあなたに触れさせてしまったんです。そこから先程の状況となった。私もその首飾りがどういったものなのか真実を掴めてはいませんでしたが、東郷が発動している術の要、力の根源となっているものだとは思っていました。
   そして今見た者たちの中に、知っている顔があったことで確信しました」

    梅枝は一瞬目を閉じる。清春は今しがた見た景色の中のはっきりとはしなかった輪郭を思い出そうとした。

「おそらくそれには旦那様に対する無数の人々や妖たちの負の感情――――恨みや憤り――――が封じ込められています。本来は普通の首飾りだったのかもしれませんが、現在は怨嗟の結晶のような呪いの道具となっているのでしょう。この禍々しい雲のようなものを生み出しているのは封じ込められた強い想いで間違いないかと思います。そして、それは他人の心に干渉する力も持ち――――我々に同情を求める者、のうのうと生きている人々を妬む者、寂しさから他の誰かを巻き込もうとする者など考えは様々であるように感じましたが――――結果、我々を取り入れようとした」

    少しずつ纏まりかけては纏まりきれていなかった情報が繋がったように思えた。やはり梅枝に非があるとは思えなかった。必要以上の責任を感じてほしくない。しかし、目上の者にこれ以上何と伝えるのが良いのかわからない。
    首飾りに込められた想いの叫びは今も聞こえ続け、さらに強くなっている気さえする。しかしその首飾りは呪いの道具だと聞いた今も恐ろしいものというよりも悲しいものだと思えてならない。恨むことも憤ることも心があるならあって当然だ。理不尽に耐え、彼らは願っているだけだ。救いを求めているだけだ。
    そしてその無数の想いに溢れた首飾りに手を伸ばしたのは自分の意思で、自分自身を保てなくなったのは己の甘さからだ。

「梅枝さんの所為ではありません。自分の弱さが招いたことです。なので、やはり、ありがとうございます」

    梅枝はまた首を横に振る。下がった眉に柔和な笑み、穏やかな声で返す。

「いいえ、それに、私だけでは手遅れだったかもしれません。――――庵さん、でしたか。おかげで間に合いました。礼を言います」

    後半は清春から視線を離し、辺りを見渡すようにして述べられた。謙虚な言葉に、やはり先程の声は庵のものだったのだと確証を持つ。姿の見えない庵にもその居場所を探りながらまるで傍で向き合っているかのように礼節をわきまえた姿勢で伝える梅枝の姿が清春と真光の目に高尚なものとして映る。出会って間もないのにも関わらず、信頼できる人物だと確証を持つには充分な梅枝の言動は、心強さを与えてくれる。

「声だけでもおそらく不十分でした。
    真光、清春。安易な同情は禁物だ。己を見失うと取り込まれる」

   どこからともなく返答が返ってくる。これまで黙って聞いていた庵の声のする場所は遠いのか近いのかわからないが、彼らの立つ空間にいつも通りの淡々とした声は明瞭に聞こえている。

「すみません。庵さんも、助けてくださりありがとうございました」

「謝辞は梅枝氏に丁重に伝えておけ。
   それよりも、まずいことに空間が歪んでいる。俺は今おまえらのいる結界のすぐ横にいるが、俺の意思で来た訳じゃない。西賀のいた位置ごと移動してきている。この空間は不安定だ。この中での移動程度なら大きな問題ではないかもしれんが、部屋の外との関係に変化があると外部の者に影響が出たり、俺たちが戻れなくなったりする可能性もある。術の発動者――――そいつの精神の安定を急いでもらいたい」

    抑揚のない話し方からでも、深刻さは重々伝わってきた。空間を安定した状態で保つことに関しては幸志郎が対応しているはずだったが、何か不具合が生じたのだろうか? 庵の姿は見えないままだが、切実な言葉から緊張感が高まっていく。
    ――――少しでも早く何とかしないと。
    東郷の姿を改めて真っ直ぐに目に映す。
    庵は今も西賀と向き合い手が離せない状況なのだろう。動ける状態であるならば、清春たちに任せずこちらの結界の中に入ってきて自分自身が何とかしようとする筈だ。自分たちのやるべきことは自分たちで全うしなければならない。自然と肩に力が入る。その肩にまた心強い手が触れた。

「承知しました。私も早く東郷を苦しみから解放したい」

    梅枝は清春と真光の肩に手を乗せた状態で答えるとすぐにまたその手を離し、東郷に触れようと試みる。しかし、今もそれは容易には叶わない。雲が頑なな圧力をもって押し返そうとする。
    3人で諦めず手を伸ばし続けるが、拒絶は強い。悲しみに閉ざされてしまった心に呼応する雲はすべてを全力で遠ざけようとする。懸命に踏み止まるが、今にも後方に吹き飛ばされてしまいそうな勢いだ。数多の想いを訴え続ける声もまとわりつくように東郷との接触を妨げてくる。

「東郷、聞いてください」

    梅枝が苦々しげな面持ちで両手を胸の前で組んだ。そのまま静かに目を閉じる。次の一瞬、音も衝撃もなく首飾りに小さな稲妻が落ちたように見えた。同時に聞こえ続けていた声が止む。また精神への干渉を試みたのだろうか。梅枝が何をしたのか明確にはわからなかったが、生まれ続けていた禍々しさの塊が途切れた。東郷が顔を上げる。周りの物が視界に入っているのか否かもわからない、ずっと恐怖に駆られた顔付きをしていた彼と目が合った。向けられたその目は誠実なものに見えた。もしかすると、今ならば――――――。

「東郷さん、聞こえますか? あなたはどうしてこのようなことを――――――?」

   咎める気持ちは一切なかった。真実を知らなければ本当に力になることはできない。梅枝と蓮悟が知っているならば聞くのは時間の無駄なのかもしれない。赤の他人には話したくないことかもしれない。それでも、知らなければならないと思った。
    東郷の瞳が揺れた。
    言葉が届いた。その顔が哀しそうに歪む。

「そいつは、西賀は、俺の家族を――――」

    もう禍々しいとは一切感じない、ただひたすらに悲しい雲がまた首飾りから溢れてきた。全てを知り向き合う覚悟を胸に、神経を尖らせながらも、拒まずそれに包み込まれる。

    今度は己を見失うことはない。心は開いても渡さない。意思を強く持ちながら、東郷の抱えてきたもの、失ってきたもの、願ってきたことを凪いだ気持ちで受け入れることができた。
    たなびく雲、霞む視界、一度歪んで景色は再び色を帯びていく。




    読んでくださりありがとうございます。誤字脱字など、お気付きの点がございましたら教えていただけますと幸いです。

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