結刃流花譚 第1章 ~ 残り香の調べ④ 後悔の形見 ~
以前より読んでくださっている方も、今初めて目に留めてくださった方も、ありがとうございます。大幅に修正を入れているところですが、できるだけ自然に伝わるように直していきたいと思っています。
拙い文章ですが、読んで何かを感じていただけると幸いです。
やや強い風を真正面から受けながら、それを切り裂くように真っ直ぐに進み続ける。清春たちを乗せた杏と紡の飛ぶ空に行く手を遮るものは何もない。できる限り風の抵抗も減らすため、清春たちは彼女らの背の上で身を低くしながら向かう先の地上の様子を確認していた。
天叢雲の本部を囲う木々の密集した森を抜けると比較的民家の多い地域が続く。背に麗らかな春光を浴びながら小さく見える家々の上を飛び続け、本部を離れ四半刻の半分にも満たない時間で目的地の傍までやってきた。
千桜町(せんおうちょう)の南西部、錦野(にしきの)の西端に近付くと進む空の道の右手下方から煙が上がっているのがはっきりと見て取れた。連絡を受け経過した時間の割にはその広がりは早くはないようだが、屋敷の西の長屋門から上がった火はその門と周囲の塀、続く長屋を焼き尽くし、東寄りの風の所為で飛び火して近隣の家にまで移っていた。
「あの広い武家屋敷が依頼主の家です。俺たちは被害を広げないよう近隣の民家の消火に向かいますので、庵さんたちはそのまま班長の元へ。奥にある依頼主の部屋にはまだ火は回っていないようです」
「わかった」
「雷獣の保護も副隊長たちと合流次第行います」
「頼む」
菊之介はその経験と性格に基づく冷静さと判断力で淡々と役割分担を決め、目上の庵にも臆することなく、しかし礼儀を欠くこともなく伝える。すぐに短い返事で従う意思を示す庵も彼のことを信頼しているようだ。
会話を聞いていた杏と紡は指示がなくとも互いに必要な距離を置き、それぞれ角度を変えて急降下する。受ける風が強さを増す。清春は体勢を崩さないようその羽を痛めつけない程度に杏の背に置く両手に力を入れた。火災による被害が大きくならないことを願いながら火の粉の舞う門の上空を通過した時に僅かに熱を感じた。だがそれは一瞬のことであり、向かう先の庭はそれに勝る禍々しさが充満し、逆に寒気さえ感じてしまうような、異様な静けさに包まれていた。まとわりついてくる空気に思わず身体が竦んでしまう。しかし隣の天音も同じように身体を強ばらせているのを見て取ると、自分の恐怖心は姿を隠し、自然とその左手の上に自分の右手を重ねていた。
同じ喪失を経験し、悲しみに暮れ、自分を責め、きっと彼女も似た想いで今日この場所にいる。自分と同じ色の天音の瞳と真っ直ぐに目を合わせると、意思を確かめ合うように、また、大丈夫だと言い聞かせるように、頷いてみせる。妹扱いを好まない天音からは小言を言われてしまうかもしれないと思ったが、それで彼女がいくらか気持ちを強く持つことができるなら、と気休め程度の願いを抱いていた。反発することなく、天音はただ頷き返してくれた。
双子の無言の会話が終わると、地上は目前だった。杏は中庭の石燈籠の傍に安全が確保できる程度に距離を置いて降り立つと、そのまま清春たちが降り易いよう脚を折りたたむ。細かい気配りのできる杏に敬意を払いながら「ありがとう」と伝えている清春の横では真光がその羽を広げて勢いよく飛び降り、よく響く砂の滑る音を立てていた。それを見て、続いて降りた庵が視線で窘める。真光は一瞬反省の表情を見せ、苦笑いを浮かべ清春たちを見上げる。見慣れてしまった光景に清春と天音は同様に苦笑いで返し、順に慎重に庭へと降りる。失われない真光らしさに僅かな心の安寧を感じたのも束の間、土を踏みしめたその庭は、寂しく不穏な色に見えた。手入れが行き届き、平常時ならば美しい庭なのだろう。しかし今はそうは思えない。蔓延る空気は目に見えないはずなのに暗澹たる気配が漂いその雰囲気を変えてしまっている。庵を見ると、彼らの立つ場所からさらに東にある一層禍々しさを放っている一室を睨みつけるように凝視していた。
「班長たちのいる部屋はあれか。わかり易くていいな」
清春は基本的に禁忌とされている呪術というものに関わったことはないが、その部屋から漂ってくる異常な空気がその影響なのだということは察しがついた。しかし、浅い知識ではそれ以上のことを考えることは難しかった。他者を呪う者の心境を推測するようなことはこれまで1度もなかった。悪意や憎しみ、妬み、敵対心などを一切知らないわけではない。自分自身、そのような感情を少しも持たないほど人柄が良いとは思っていない。それでも、そのようなことを考える必要のない恵まれた環境で生きてきてしまった。周りにいてくれた人々、妖たちに感謝したいという気持ちは強い。しかし、恵まれすぎて想像すらできなかったことがある。そう思うと申し訳なさがそれ以上に強く心を支配する。実際、大半の者から見て清春の生まれ育った環境が恵まれすぎているということはないのだが、清春はそれを糧に自分にできることを探して動こうと決めた。後悔、情けなさ、無力感、視野の狭さ――――。勝手に感じている自分だけの負い目が生んだ覚悟は、それでも信用に足るものだ。痛みを伴い学んだことは自分自身を裏切らないでいてくれる。環境が変わり様々なことを知った今、負の感情ひとつひとつとも向き合っていくことができる。
あの部屋の中に渦巻く感情はどのようなものなのだろうか。やるべきことはただ術を封じることではない。それだけでは解決しないことはわかる。
まずは不用意に動かず冷静に指示に従わなくてはと思い、庵の方へと視線を戻す。しかしこの先の行動について問う間はなく、庵は皮肉を言った傍から足音を忍ばせて駆け出していた。
そこで戸惑ってしまうことはもうない。恩人が言葉足らずなのは常日頃からであり、清春たちは3人とも大きく気にすることはない。今はそこにあるのは不器用さと信用してくれている証だと思えている。だからこそ、救ってくれ、ここまで見守ってくれた庵に応えなければという想いは強くなる。先程反対されかけた時の悲しみもここに繋がっている。
「屋内の状況はわかりません。臨機応変な対応が必要となってくると思いますが、一旦我々の後について行動していただけますか?」
礼を欠かない所作で声をかけてくれる清乃へ1度頷いて言葉を返す。数刻前に初めて会った彼女も言葉数は少なめである印象だが、必要なことは無駄なく丁寧に伝えてくれる配慮の行き届いた振る舞いに、庵に抱いている好印象とはまた別の良い印象を抱く。
「できることを行います」
清乃は意思の込められた清春の言葉に続き天音と真光も頷くのを確認し、お願いします、と小さく頭を下げて向かうべき部屋の方へと向き直り、庵の後を追い始める。その動作にも無駄のない彼女は後に続く清春たちへの配慮も怠らない速度で庵に追いつこうとする。
この先で誰が何に苦しみ、何に傷付いているのだろうか。脅かされているのは命か心か。近付いていく間にも、清春の焦りと不安は募っていく。できることはきっと多くはないだろう。もう何もできずに目の前で誰かを失うのは嫌だと思い、それを言葉にもしてきたが、本当にその恐怖と向き合うのはあの日以降、今日が初めてだった。心が酷く戦慄している。繰り返してはいけない、と自分自身に言い聞かせる。剣の技術も体力も頭脳も大きく変われたわけではない。誰かの為に戦い、守り抜ける力をつけたなどと傲慢なことは思えない。しかし、後悔したからこそ生まれた想いを灯し続けたこの1年で変われたこともあると信じたい。あの日何もできなかった自分自身を救いたいだけの偽善でしかないかもしれない。それでも、その偽善が誰かの為になる可能性があるならば――――。何をすれば良いのかわからないままだが、できる限り心を砕いて動きたい。
100歩も走らないうちに縁側に辿り着く。土足のまま屋敷に上がっていた庵は部屋の前で気配を潜め動きを止めていた。物音を立てないように閉め切られた部屋に近付き、庵に倣い障子に耳をつけて攲ててみるが中からは音も声も聞こえない。障子戸は綺麗なままだが、その隙間から滲み出てくる先程までと比較にならない程の禍々しさを孕む得体の知れない空気に身の毛がよだつ。
触れるだけで皮膚を侵食されてしまいそうな不気味さを感じるが、ここで引くという選択肢は誰の中にも浮かばない。庵が戸に手をかけ慎重に1寸(3cm)程動かすと、そこから目に見えるわけではないのにはっきりとわかるおどろおどろしさの塊が溢れ出してきた。表情を強ばらせ躱すように天音と真光が1歩後ずさり、清乃がそれを庇うように片手を広げる。1尺(30cm)程の大きさに戻っている杏が翼を羽ばたかせてその空気を遠ざける。清春は思わず一瞬目を瞑ったが、すぐに開き直しその場から中の様子を確認しようと覗き込んだ。
部屋の中では鋭い刃のような風が縦横無尽に吹き荒れている。凄まじい風であることがわかるのに、不思議だが外からはその風圧は感じない。風の音もしない。静かで異常な光景。本当にこの中に誰かいるのだろうか。いるとすれば無事なのだろうか――――――。視界に入ってくるのは風の動きばかりで全体は把握できない。壁も家具もあるのかないのかわからない。部屋の奥行きも高さも掴めないが、部屋の外観よりもずっと広いような違和感を感じる。
「幸志郎班長、おられますか!」
庵の問いかけに返事はない。風の中にいて、そこでは見た目通りの風音が響いているのだとしたら掻き消されて聞こえないのかもしれない。もしくは、中の音や声が外には聞こえないようになっているのかもしれない。そうだとすると外の声も中に届いていない可能性もある。
「入るぞ」
このまま立ち尽くして呼びかけ続けても仕方がない。庵は一言伝えるとともに躊躇うことなく戸をさらに広く開ける。全身で受けた空気には目に見えない感情が複雑に織り交ぜられ、清春たちをも呑み込んでしまおうとしているように感じられた。
読んでくださりありがとうございました。誤字脱字など、お気付きの点がございましたら教えていただけると幸いです。