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結刃流花譚 第1章 ~ 残り香の調べ⑨ 知の鏡 ~


        第1章の最後の話です。何度も書き直してしまっていますが、少しでも伝わる文章になっていると幸いです。





    錦野から本部に戻ると、降り立った花弁舞う庭は柔らかな夕日に照らされ昼下がりとはまた異なる風情を見せていた。
    飛び立つ際には向かう方向と眼下の景色のみに視線が向かい気付くことはなかったが、戻ってくる際に初めて空から見た天叢雲本部の全貌は、自然の中に佇む森厳な神社のような印象を受ける場所だと感じた。入り口には立派な鳥居も建っている。不思議なことに、庵に連れられ歩いて敷地に踏み入れた際にはその存在に気付くことはなかった。
    時刻は暮6つ(18時)を回っていた。本部の周囲に他の建物はないが、多くの店は暖簾を下ろし、火点し頃を迎えようとする頃合だ。これまでの生活では、直に帰ってくる庵と時間を合わせて夕食をとれるよう、天音が厨に立ち、清春、真光、異父弟の樹が時々それを手伝いながら過ごす時間となっていたが、今日はその時刻までに戻れないことも想定し、庵の家を出る前に天音が冷めても食べられる食事を樹のために弁当箱に詰め用意していた。この時間帯に樹を1人残して出かけているのは初めてだった。不安にさせているであろう弟に申し訳なく思うが、今日はまだ帰ることができそうにない。いつでも樹を気にかけることを忘れない天音は一層心配しているだろうと思い妹の立つ方を見遣ると、ちょうど庵に何かを伝え、説得されていたようだった。
    庭でそれぞれ言葉を交わしたり持ち物を確認したり衣類を整えたりしていた清春たちは再び出発前に集められていた部屋へと招かれ、息をつく間もなく座布団の上に正座する。

「随分と遅うなってしもうたの。ひとまず、みなご苦労じゃった。この先は可能な限り手短に済ませる。身体の疲労も心労もあるじゃろうが、心して聞くように」

    部屋の奥の襖が開き、悠揚たる姿で声を響かせながら近衛が入ってくる。

「そうじゃ。この試験、6名とも合格で良かったかの?」

    その場の全員を順に見渡すように顔を向けられ、隠れて見えない近衛の瞳に自分たちはしかと捉えられているのを感じ、清春は僅かに竦んでしまう。暫しの間ができ、近衛の双方の眉はやや大袈裟に上げられ反応を窺っていた。

「反対意見はないようじゃの」

    誰も声を上げない状況を肯定と受け止めることを確認するように、近衛はもう一度、その場の全員を順に見遣る。その後で、清春も部屋の中のひとりひとりの顔を一瞥した。
    真光と黒髪の少女は特に疲労の色を強く顔に表していた。それぞれ呪詛と対峙したり、町を守る為に奔走したりしていたのだ。誰もが体力を消耗しきっていたとしても無理はない。表情にはさほど表れていない清春たち残りの合格者4名も各々体力的にも精神的にも疲弊していた。

「もう暫し辛抱してくれるかの」

    不意に気遣いの言葉をかけた近衛が音を立てず屏風の中心に移動するのに合わせ、少々意表を突かれた様子の清春たちの視線も揃って移動する。動きを止めた近衛の姿は、その屏風に描かれた鶴と亀と並ぶことで瑞雲に包まれているかのように感じられた。本心が読めず面妖な人物だと感じたり、圧倒的な妖力を持っている様子が窺えたり、好々爺然として見えたり、神聖な存在に思えたりと、本当に不思議な老人である。自分の言動に対する周囲の反応から様々なものを読み取っている様子から、心をすべて見透かされているのではないかとまで感じ、落ち着かない。そのような清春たちの思いには構うことなく、近衛は悠々たる雰囲気を放ちながら説明の続きを始める。

「先ほどの話の続きじゃが、知識と技術の試験はそなたら6名にのみ受けてもらった。最初の面接で話した通り、我々は少しでも多く隊員を増やしたいと考えておる。面接で認めた者全員をそのまま合格にしても良いんじゃが、念の為、最低限の能力を備えているかと、向き不向き、得手不得手を確認する必要があるでな。心構えだけでも、能力だけでも、ここでやっていくのは厳しい。まあ、気付いての通り、余程のことがない限り後2つの試験で落とすことはない。面接に合格した者で技術の試験で合格に満たなかった者は過去に1名だけおるが、その者も今は裏方で儂らを支えてくれておる。
 そなたらを除く17名、面接で不合格と判断した者にはその場で帰ってもらった。機密情報を守る為にちょっとした細工をしてな」

 改めて、最初に面接を行った近衛にほとんどすべての決定権があったということを確認させられた。面接の合格者が3分の1にも満たないことや、機密情報を守る為の細工、というものが気にはなるが、続いた筆記と技術の試験内容や結果にも納得がいった。
    何名かずつ同時に別の場所で行われていたとしても20数名が受けたと考えると技術の試験時間が短いと感じたことで生まれていた疑問の答えも得られたが、それでもやはり清乃はこの半刻のうちに6人と続けて手合わせしたことになる。それをするのにも相当な体力が必要なはずだ。その後に、先程の件である。
     そっと視線を清乃へと移すが、凛とした佇まいを崩さない彼女が疲れている様子はまったく見られない。鬼である彼女の体力が何らかの力により並外れたものとなっていてもおかしくはないが、人間と変わりのないその姿からは無尽蔵の体力を持っているとは思えない。
 清春の視線に気付いたのか、他の誰かも同じような反応を示していた為か、近衛もまた清乃の方を見ながら続ける。

「そなたらにとってはちょいと強すぎる相手だったかもしれんな。彼女の剣の腕は隊員の中でも特出しておる。その彼女とあれだけ渡り合えるなら今は十分じゃろう。実際、今回も全員が無事に帰ってきておる。
  彼女が見ていたのは、腕よりもそなたらの戦い方じゃ」

 清乃は謙虚な姿勢を崩すことなく、微かだが全体に伝わるように、礼とも同意とも取れる形で、ゆっくりと1度首を縦に振った。長い黒髪が静かに揺れる。
 桜吹雪に包まれていた試験時の光景が蘇り、清春は清乃に言われた言葉を思い出す。
    全身全霊で振るった竹刀はいとも簡単に止められてしまった。しかし、もらった言葉は清春にとっては最高の褒め言葉だった。父を知る者に父と比較される時には、技術の差を指摘されてばかりだった。この時初めて、自分の中に生きる父の精神を他者に認めてもらえた。

「結局余計なお喋りも挟んでしまっておるの。何はともあれ、ようこそ、天叢雲へ。
 儂の問に返された言葉から、そなたら6名はここの在り方をある程度正しく理解した上で入隊を望んだものと判断した。儂らは知名度の高い組織ではないゆえ、また、公に情報を公開できないゆえ、どこで聞いたのかわからん情報から本来の役割への認識が曖昧なまま試験を受けに来る者や、闇雲(やみぐもり)への憎しみに駆られて入隊を希望する者がおる。前者はまだ仕方ない。じゃが、後者は儂らの目的達成に関しては大きな枷となる。隊員を少しでも増やしたい現状ではあるが、内部に復讐の連鎖を増幅させるような者を置くわけにはいかん。今回合格と看做(みな)したそなたらには一定の信頼がおける者として、天叢雲の一員としての役割を託したいと思う」

    家族に隊員がいる清春たちでさえ、天叢雲の正確な情報は庵に教えてもらうまで知らなかった。秘密裏に動く必要のある組織である以上仕方のないことなのかもしれないが、余程隠されている面が多いのだろう。 天叢雲の治安維持の為の活動のみを知り純粋に町村の平和を守りたいという気持ちで試験を受けに来た者には性格を見ながら本来の仕事についての説明をしているらしいが、ほとんどの者が考え直すと言って一旦辞退しているとのことだった。 本来の顔を知っている者でも、動機、情報の出どころ等によっては落とされてしまう。合否の基準を明確には伝えなかったが、近衛は受験者の性格や考え方まで見極め短時間で判断を下していた。
    清春たちは、合否は近衛の気まぐれで決まる、と隊員たちが冗談半分で話しているという話を後ほど聞かされることとなるが、実際には非常に慎重に選ばれている。23名の受験者に対し少なく感じられる6名という合格者数は、志願者を募って行う卯月の入隊試験では過去最高だということも後に教えられることとなった。
    説明中に近衛の両横に移動していた篁と雪成が、幅1尺(30cm)ほどの赤紫色の巻物の端と端を持ち、近衛の頭上で裏を向けて開いた。

「少々堅い話をする。我々は世の中において遍く重視されるべきだと考えておる心構えを基にいくつかの規範を定めておる」

    静かに巻物が翻される。そこに筆で書かれている堂々とした文字を、声量をやや大きめに、近衛が読み上げる。

 
「1つ、己を律し、他者の尊厳を重んじ、寛大な心で物事を捉えるべし。
 1つ、秩序を守り、己の良心に背く行いをすること勿れ。
 1つ、いかなる場面においても万物に対する礼を忘れるべからず。
 1つ、知識は持つのみに非ず、学びより思い、言動に移すべし。
 1つ、他者を信頼し、他者から信頼される存在であるべし」

    声は重みを持って厳粛に静けさの中で響いた。
 
「これらはこの天叢雲の隊員に求める精神の有り様(よう)を表しておる。他者に対する思い遣りや慈しみの心、誠実に正義を貫く勇気、礼儀を尽くすこと、平等に正しい判断を降すための知識、他者から信頼される正直で素直な姿や他者を信頼する姿勢。
 説教臭く聞こえるじゃろうが、誰もがこれらを持つことができたなら、誰かを蔑み傷付ける者も、復讐を心に誓い実行しようという考えに至る者もなくなり、この戦いを本当に終わらせることができるじゃろう。
 西の国の思想家の行いや考えを基に伝えられる朱子学や儒学といった学問を学んだことがある者もおることと思うが、我々の信念はその教えに通ずるところもある」

    規範の基となった5条については清春も聞いたことがあった。藩校などに通えば学べると聞いていたが、武家の子どもではない清春に教えてくれたのは継父だ。その話はよく父の姿と結び付けて聞かせられていた。父の友として語る継父の姿は誇らしげで印象的だった。
    しかし、語られた父も、語ってくれた継父も完璧ではなかったはずだ。そこに表されているような高尚な精神のみを常に持ち続けることのできる者はいないだろう。復讐に繋がる負の感情を人や妖の心から完全に消し去ることは不可能だ。負の感情も悪いものばかりではない。時にとても大切なものであるはずだ。しかし、完全に理想通りにはいかずとも、絵空事だと感じても、より良い生き方に繋がることとして、この考え方には共感できるものが多くある。難しく感じる内容もあり、全てを理解できているとは言えないが、教えてもらったことを心に留めておきたいとは感じることができていた。

「これらを欠いたり見誤ったりするならば、我々の真の目的は達成できんと思うておる。さらに言うならば、事態を悪化させ、次なる怨恨の果ての悲劇を生じさせかねん。それは何としても防がねばならん。
  故に、この規範を遵守し心を強く持ち続けていてもらいたい。反する者は容赦なく排除させてもらう」

    おぼろげだが、面接で近衛が確かめていたこと、合否の基準は今の言葉に繋がっているのだろうと感じた。認めてもらえたことに応えたいという気持ちと自分の脆さを自覚しているが故の不安がゆったりと塒を巻くように心の中で渦巻き始める。

「心の隙は大きな闇を生む。それを理解し己を律するように。
 ここには現在、非戦闘員含め約60名の隊員が所属しておる。妖、人、その両方の血を引く者、種族も立場も様々じゃ。どのような理由があろうとも、その種や身分による差別を一切許しておらん。平等に他者を重んじよ。誰かを蔑んだり誰かに媚びたりするような兆しの見られる者はそもそも入隊させてはおらんが、心に留めておくように。
 複雑な心の動きが絡んでおる、ひとつの視点だけでは解決できん戦いじゃ。公にはなっていないが、和久の国主からそれを託されておる。力を合わせて任務に当たってくれ」

 近衛が言葉を切ると、清乃は速やかに清春たちの背後に回り、座っている彼らの間にその都度膝をつき、ひとりにひとつずつ、手のひらの半分程の大きさの勾玉を渡していった。その穴にはひとつひとつ異なる色の組紐が通されている。軽く頭を下げながら清春が両手で受け取ったものには浅葱色の組紐が取り付けられ蝶結びにされていた。
 無駄のない所作で全員の背後を通りながら勾玉を渡し終えた清乃が動きを止めると、近衛が再び呼びかけた。

「その勾玉を持つ者のみがここへの出入りが自由となる。隊員の証のようなものじゃ。肌身離さず大事に持っておくように」

 掌に乗せた青瑪瑙の勾玉には見覚えがあった。太陽を表す頭の中心に大きめの穴が空けられ、月を表す尾のほうは丸みを帯び柔らかい印象をしている。姉が常に首から提げていたものと同じだ。杏と紡の首のものもおそらく同じものだろう。それが唯の装飾品ではなかったことを今初めて知る。
    天叢雲本部へと向かう姉の姿を思い浮かべながら少しの間眺めた後で、清春はそれを使い古した母の手縫いの袂落としへとしまう。幼い頃から大切に身に着けてきたものだ。色褪せた袂落としが確かな重みを帯びる。
 
「これから少し、そなたらの過去を覗かせてもらいたいと思う」
 
 近衛が言うと、いつの間に用意していたのか、篁が臙脂色の布の被せられた厚みのある板のようなものを足元の木箱の中から丁重に取り出し、布を外して近衛へと渡す。
    近衛が両手で受け取ったそれは、1尺(約30cm)程の銅鏡だった。丸い鏡面の周りを取り巻くように、流れる水を彷彿させる繊細な装飾が左右非対称に施されている。華美ではなく、かなり古いもののように見えるその鏡は、どこか神秘的な雰囲気を纏っていた。
 近衛はもう雪成の用意した座布団に正座し、篁の手によりそれに被せられていた布が自分の前に敷かれたのを確認すると、その中心に物音一つ立たないようゆっくりと鏡を置いた。
    やや離れた位置からでも確認をすることのできる、天井を仰ぐ鏡面に映るのはそのままの天井で、他の鏡との違いを見出すことはできないが、清春にも何か特別なものなのであろうということだけは伝わってきた。

「多少心身に負担がかかるかもしれん。疲労の具合によっては身体に差し障りがあるかもしれんが、構わんかね?」

    清春は疲労の色の濃い真光と黒髪の少女の方を窺った。2人の様子は変わらないがそれぞれが頷き肯定したのを見て、清春もゆっくりと首肯する。
 
「そなたらに関する知識がほしい。そなたらが真に見てきたもの、感じてきたものを識りたい――――――。
  何、心配せずとも、そなたらがここに来た経緯を言葉で説明してもらう手間を省くだけじゃ」
 
 含みのある微笑を浮かべると、真光の隣りに座っていた少年に顔を向け、穏やかだが有無を言わせぬ雰囲気で声をかける。
 
「順番に鏡の前に来てくれるかの」
 
「はい」
 
 近衛と目を合わせ、短く明瞭な返事をした少年は躊躇う様子もなく速やかに立ち上がる。
    そのまま真っ直ぐに背の伸びた凛然とした姿勢で鏡の前まで歩みを進めると、近衛を真っ直ぐに見据えて一礼し、無駄のない動きで腰を下ろす。

「三徳と呼ばれる徳目と呼応し、知を司るこの鏡には不思議な力が宿っておってな。それは説明するより体感してもらう方が分かりやすいじゃろう」

    全体へ向けて告げると、近衛は真摯な瞳で言葉を聞く少年に満足そうな笑みを向け、次の指示を出す。

「鏡の縁に両手を乗せて、鏡面を覗き込むのじゃ」

「承知しました」
 
 少年がそれに従うと、首から提げた勾玉が淡い光を放ち始めた。少年が近衛と向き合うように座っているため、鏡に映し出されているものは清春たちからは見えない。
    そのまま時が流れるが、勾玉が光り続けていることを除いては、少年と近衛が鏡を見ているだけで、周囲には何も変化はないように見えた。
 しかし、よく見ていると、少年に何らかの異変が起きていることに気付く。ただ鏡を覗き込んだだけであるはずの少年は目を見開き、まるで魂を抜かれたかのように微動だにしない。近衛は鏡面を見つめ何かを微かに呟き続けていた。
 何が起こっているのかわからないまま、清春たちは固唾を呑み2人の様子を見守っていた。
    その時間は長くは続かず、近衛が少年の両手に己の両手を添えて鏡の縁から離すのと同時に、少年は顔を上げた。
 
「もう下がって大丈夫じゃ」
 
「......はい」
 
 再び礼をした少年は整然とした立ち振る舞いを変えることはないものの、その表情は硬く、誰とも目を合わせずに元の位置へと戻る。
 無言で再び腰を下ろした少年の隣りに座る真光は、不安げな表情を浮かべ近衛を見る。近衛が目で促し、真光は少しの間を置いて立ち上がる。
    恐る恐る歩みを進め、少年と同じように近衛の前に腰を下ろし、意を決して鏡を覗き込むと、その大きな瞳を一瞬揺るがせ、身体全体の動きを止めた。
    勾玉は真光の右手に握られたまま、その中で光を放っている。手の隙間から溢れ出す光は、美しくも微かに震えているように見えた。近衛は先程の少年の時と同様に少しの間何かを呟き、すぐに真光の手に手を重ね、鏡から離れさせる。
 勾玉の光が消えると同時に再び命を吹き込まれたかのように動き出した真光は、動揺を隠せないまま、何も言うことができず、足早に元の場所へ戻り、清春を見る。心底心配そうな表情を浮かべていた清春は、真光を安心させるためか、それとも自分自身を安心させるためか、真光を真っ直ぐに見つめ返してゆっくりと頷いた。
    力が抜けたように座り込む真光の肩に軽く手を乗せ、立ち上がると、清春もまた、少年と真光のように近衛の前に歩いていく。
 
「失礼します」
 
 座ると同時に鏡の装飾にそっと触れ、一見何の変哲もない古びた鏡を覗き込む。袂落としの中で勾玉が放ち始めた光は襦袢の袖を内側から照らし、雪洞の明かりのように柔らかく見えた。その明かりを映した鏡面は、融け出すように渦を巻き始める。
    見つめ続けていると、その中に引きずり込まれるかのような感覚を覚え、意識が遠のいていく。
 
 近衛が念仏のような呪文のような何かを呟き始めた頃には、現実の声も音も、もう清春には聞こえていなかった。





    第1章はここで完結です。ここまで読んでくださりありがとうございました。

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