結刃流花譚 第1章 ~ 残り香の調べ⑥ 哀音 ~
以前より読み続けてくださっている方も、初めて目に留めてくださった方も、この頁を開いてくださりありがとうございます。お時間が許されるようでしたら読んでみていただけると幸いです。
結界の中に入った瞬間、部屋中に蔓延し、建物の外にまで流れ出ていた禍々しさの出処がここであることが手に取るようにわかった。先程までと比較にならないほど空気は重く濃く、立っているだけで息苦しさを感じる。吸い込むと自分自身の心も侵食されていくのではないかと錯覚してしまう。一刻も早く離れた方が良いのではないかという不安を押し殺し、その中央にいる向き合うべき相手――――じわじわと蝕まれていく己の足を見て錯乱状態となっている男の方へと身体を向ける。彼の手に持つ首飾りのようなものから細い煙に似た姿でその禍々しさは滲み出し、円を描くように集まり黒い雲のような明確な形のない塊を形成していく。そしてその塊は男の周りで漂い、まるで彼を守っているかのように包み込み、それと同時に外側へ向けても薄く棚引くように広がり続けている。
近くまで来たのに遠く感じる男の元から流れ出し続ける雲が何度も顔や腕を掠める。それは周りが見えなくなっている彼の意図とは関係なく動いているように見えるが、そこに明確な意思はなくともその心からは何らかの影響を受けているのだろう。彼の心が読める訳ではないのに、それに触れる度に強い悲しみと憤りを感じる。声にできない感情に呼応しているかのように哀しい色に見える雲は生まれ、男を包み込みながら、彼の代わりに何かを訴えてくる。しかし、その訴えを理解することも、何かを返すこともできない。何も知らないのに、心が疼いた。
「あの、ちょ」
斜め後ろから聞こえた声に振り返る。存在を忘れていたわけでも無視をしていたわけでもないが、雲に包まれる男の方に気を取られ、声をかけるのが後になってしまった。
結界を張りながらすぐ傍で突然中に入ってきた清春たちを見ていたその少年は混乱した様子で何かを言おうとしていたが、言葉にならない。元々色白だと見受けられる顔がさらに青白くなっている。
閉じ込めきれない禍々しさは結界の外にも流れ出しているが、それでも結界の中にじわじわと満ちていくように感じる。その中にずっと佇む彼の方へ、改めて3人揃って彼の方へと向き直る。
「驚かせちまったな。悪ぃ」
「あなたは大丈夫ですか……? 突然すみませんでした」
飾らず自然体のままで謝る真光とこの空気の傍に居続ける少年を心配した清春の言葉を聞くと、少年は身体をびくりと震わせ、その瞳は大きく見開かれる。最初に気にかけられなかったことに対する申し訳なさに加え、その反応から伝わってきた怯えや不信感を抱かせてしまったことに一層申し訳なくなってしまう。
3人を視界に捉えたまま動きを止めてしまった少年の年齢は清春たちと大きく離れてはいないだろう。同じ年、もしくは1つか2つ上くらいに思えた。その顔立ちにはまだあどけなさも残っており、栗色の髪は短く自然な雰囲気に切り揃えられている。
「ちが、ゆ、許してくれ、俺はこんなこと……」
少し間を置いて絞り出された声で許しを請われて戸惑い、所在なく開いた両手を前に出す仕草をする清春は、相手を落ち着かせようとしてすぐに次の言葉を探し始める。先程の言葉が届いているのかいないのかはわからないまま、繋がらない会話が自分自身の対応の正しさや相手の精神状態に対する不安と懸念を増幅させていた。
「違う、違うんだ、俺はただ……どうしたら……」
適切な言葉が見つからない間に少年は譫言のように繰り返し始め、清春は顔に焦りの色を浮かべる。大して意味が無いことをわかりながらも近くで渦を巻いている雲を払い、思いつく言葉を連ねる。
「待ってください。驚かせてすみません。俺たちはあなたを咎めに来たんじゃありません」
「あんたは悪くない。こいつを守ろうとしてるんだろ?」
真光も続けて言葉を並べた。今度は届いたようで、少年は一瞬豆鉄砲を食ったような顔をする。どのように捉えられての反応かわからず、配慮に欠ける部分はなかったか、ただ必死に並べてみた自分の言葉を頭の中で反芻してみる。しかしそれは杞憂に終わり、敵意がないことは伝わった様子で、少年の表情に少し落ち着きが戻る。
だが、無言のまますぐにまた悲しげな色を宿し、その瞳を雲に包まれる男の方へ向ける。結界を張るために手を組んだままそうする姿が、祈りの姿にのようにも見えた。
「東郷を守ってくださりありがとうございます。彼と少し話させていただけませんか」
静かにやり取りを見守っていた梅枝が落ち着いた丁寧な声で伝える。控え目で品の良い雰囲気は誰に接する時も変わらない。相手に敬意を払い礼節を重んじる姿勢。使用人としての役割を果たす時以外でも梅枝はそれを大事にし続けてきた。
梅枝は東郷と呼んだ男へ視線を投げ、誰にも気付かれないほどの小さな声で今一度その名を呟く。寂しげな声は静かに雲に吸い込まれていった。
幾重にも重なり分厚くなっていくように見える雲の中心で、東郷は今も徐々に変色していく自分の足をひたすらに払い続けている。それで壊死が止まるわけでも進行が遅くなるわけでもないが、そうせずにはいられない様子で同じ行動を繰り返す。清春たちの声は結界の外で飛び交う風の音にも完全にかき消されてしまうことはなく、距離の離れていない東郷にも届いているであろうが、彼が自分のことを話されていることに気付く様子はない。
「……俺も話したい、けど、でも、定吉さんは今――――」
少年は悲しげな声で言い淀む。少年の言う通り、まともに会話ができる状況ではないであろう東郷と、それでも向き合わなくてはならない。
隙間が生まれたり埋まったりしながら彼を取り巻き続ける雲は、他者を近付けまいとするもう1つの結界にも見えていた。そこに強い拒絶を感じ、清春は心のどこかがまた哀しく痛む感覚を覚えたが、きっと東郷本人と彼を守ろうとする少年、そして東郷のことを知っている様子の梅枝の方がもっとずっと苦しいのだろうと思い、誰かに悟られる前にそれを押し込める。
自分に対する拒絶は当然のことなのかもしれない。しかし、彼ら――――梅枝や少年の心が届かないことが哀しい。
「自信はありませんが、任せてみてくれませんか?」
心は震えているのに、自分でも驚くほど穏やかな声が出た。最初、少年は憂慮と懸念を抱いたように見えたが、張り詰めていた気持ちが少しずつ和らぐように次第にそれは消えていく。それに従い次は遣る瀬なさと申し訳なさが混ざった表情が浮かんでくる。そのまま言葉は返されることなく視線は落とされるが、それは無言の同意だと根拠のない確信を持って受け取ることができた。不安が消えることはないが、原動力となる少しの勇気をもらうには充分だった。
「ありがとうございます」
清春はぎこちなく、しかしできるだけ丁寧に伝え、もらった力を湛えた目を真っ直ぐに向ける。
「あの、あなたの名前も教えていただけませんか?」
大きな意味はない問いだった。しかし、知っておきたいと思った。
「――――蓮悟」
「蓮悟さん。俺は清春といいます。詳しい経緯はわからないままで、あなた方のことに土足で踏み込むような真似をしてしまいすみません。信頼に足ることは何一つ言えませんが、俺だけでは知識も力も心許ないと思いますが、真光と、梅枝さんと一緒に、今できることを、思いつく限りのことをやってみます」
上手くは言えないが、並べられる限りの言葉を紡ぐ。薄花色の瞳と空五倍子色の瞳が真っ直ぐにお互いを映し合った。横で真光も蜂蜜色の大きな瞳を蓮悟に向けて頷いている。
「どうして」
「ん? 深い理由なんかない。やりたいからやるだけだ!」
問われて即答した真光の声は無垢で飾らないものであり、彼らしく綺麗だと感じる。
彼の言動はいつも清々しく単純そうに見え、その裏には充分な考えと重みがあることを知っている。その振る舞いも隠された思い遣りもおそらく無意識なのだろう。真光の言動は目に見えるものもその奥の複雑さも含めてすべてが取り繕わない純粋なものであり、この先も変わらないでいてほしい、何物にも染まらないでいてほしいと感じる。考えすぎてしまう清春には真似ることのできない彼の本質だ。
迷いのない言葉のその後で、清春は自分自身の答えを探し、少し考え込んでしまう。真光のような回答はできない。完全な正義感や善意のみから動いているとは言えない。命令されたわけでも、試験に合格する為にやっているわけでもない。名誉や報酬の為でもない。
「そうですね……。自己満足、かな」
考え抜いた末の頼りない言葉が申し訳ない気持ちと共に零れた。
「興味深い回答ですね」
横からかけられた声に俯きかけていた顔を上げた清春の隣で、声をかけた梅枝が微笑んだ。
ただ、見て見ぬふりをするような自分でいたくないだけだった。そのような自分が許せないだけだった。何かできることがあるなら手を伸ばしたい。それは押し付けがましいだけの想いかもしれない。これまで平穏な生活の裏で苦しむ誰かに気付けなかった自分の、あの日両親と姉を置いて逃げることしかできなかった自分の贖罪の為にこの状況を利用してしまっているだけかもしれない。救いたいのは、許したいのは、結局自分自身だ。そのために差し伸ばす手など、所詮、偽善でしかない。
それでも、誰かを確実に助けられるのならまだ良い。今の自分には手の届く範囲のものさえ救えないかもしれない。見捨てずに何かしようとしたという事実を残し、自尊心をこれ以上傷付けないようにしたいだけのようにも思えてくる。その不安と罪悪感を抱えて尚、自分を守った結果が少しでも相手の為にもなることを願う。純粋な理由は持つことができない。偽善でいい。決めたことは貫きたい。何度も迷いながら辿り着いたの理由はそれだけだ。
明確な意図はわからなかったが、梅枝が向けてくれた表情は、胸を張ることはできない清春の想いを支持してくれているもののように見えた。真光も元よりわかっているといった風な視線を向けてくれた。蓮悟も表情を和らげてくれた。それが心強かった。
「梅枝さんは東郷さんのことをご存知なんですね」
「前に少しだけ彼もここで働いていたんですよ。直接指導する立場にあったので、よく関わっていました。孫が増えたようで嬉しかった。今も完全な他人だとは思えません」
共に働いた時間を懐かしむように、東郷のことを慈しむように、梅枝は語る。
「ですから私は、先程も言ったように、私情も挟んでここに立つことを望んでいます。ここまで東郷を守ってくださった蓮悟さん、これから助けようとしてくださっている真光さんと清春さん、あなた方への感謝の気持ちにも嘘偽りはありません」
「梅枝さん……」
「ここまで来られたのはそれぞれのお考えがあってのことと承知しておりますが、こうなってしまう前にもっと東郷に寄り添ってやれば良かったと後悔している年寄りの身勝手にもお付き合いいただけますか?」
梅枝は今度は少し悲しげな笑顔を浮かべる。清春は深くなる皺を眺めながら、見え隠れする彼らの関係性と梅枝の人柄に、本来のそれらが温かいものであるからこそ生じるのであろう一抹の寂しさを感じとった。
清春と真光はゆっくり大きく首を縦に振る。蓮悟も頷き、結界を張る手に力を込め直していた。
「誰もが今の皆さんのような気持ちで生きられたら、この世に憎しみという感情はなかったのかもしれませんね」
もう一度微笑んだ後で呟かれた梅枝の言葉は、3人とも正確に聞き取ることができなかった。しかし、尋ね直させる間を作らず、梅枝は東郷へ語りかける。
「東郷、聞こえますか? 話を聞いてもらえませんか?」
返事はない。
「方法を変えましょう。これではあなたも他の誰も救われない」
東郷の動きは変わらない。梅枝は東郷の目的がわかっているような様子で、言葉は伝わっているのかどうかわからないまま、それでもいつか伝わることを信じて呼びかけ続ける。
「東郷、応えてください。違う道を探しましょう」
梅枝の言葉も、蓮悟の想いも届かない状況で、赤の他人の自分たちに何かができるとは思えない。しかし今は気付いてもらう為に、心を開いてもらう為に、彼らの言葉と想いを援護する。
「何か理由があってこんなことしたんだろうけど、このままじゃあんたらが苦しむだけだ。一旦呪いを解いてくれ」
「東郷さん、お願いします」
真光と清春の言葉にも、やはり何も返ってこない。届きそうで届かない距離。ここで苦しむ姿を見続けるのは苦しいが、目は反らさない。反らせない。
どうしてこのようなことになってしまったのだろうか。彼は何を求めているのだろうか。どのような言葉ならば心に響くのだろうか。
気が利いた言葉は見つからない。助けるというような上から目線に聞こえてしまう言葉は烏滸がましすぎると感じ、事情もわからず味方だと言い切るのも白々しすぎると感じ、頭に浮かんだ多くの言葉は結局どれも言えなかった。何を選んでも自分の言葉では駄目だ、とも感じた。
「東郷」
ここで本当に彼の心に寄り添えるのは梅枝と蓮悟だけだ。もう1度呼びかけながら梅枝は一歩東郷に近付く。清春たちの見守る前で、東郷を守る盾のようであり、その他の者を警戒する矛であるような雲状の禍々しさに触れる。梅枝の手にはそれに触れる感覚はない筈なのに、染み込んでくるような痛みを感じている。
そこで、ほんの一瞬、梅枝とその手の先の空気が稲妻のように光った気がした。見間違いだったかもしれないが、清春の目にはその残滓が見えているように感じられた。梅枝はそのままその先の東郷へと手を伸ばす。
「来るな!」
東郷が拒絶を叫ぶと同時に、彼を包んでいた暗い重い雲が彼の前に集まり分厚い壁が聳え立っているかのような形を成す。そしてそのまま上から崩れるように押し寄せてきた。音はないのに崩壊の音が聞こえてくるような気がした。彼らだけを守れる範囲を包み込む小さな結界の中、この近距離で避ける術などはない。抵抗できない清春たちを真正面から一瞬で呑み込む。一瞬、すべての感覚が消えた気がした。その直後、目の前が絶望を表すような闇に包まれる。雨が降っているかのように、哀しい音が響いている。手が届く範囲にいた筈の真光の姿も梅枝の姿も、少し離れた蓮悟の姿も見失ってしまったが、東郷の姿だけははっきりと捉えることができた。流れてはいない涙が見え、哀しい鼓動が聞こえる。さらに三歩近付き、手が届く位置に来た。両手で彼の持つ首飾りに触れる。
その冷たさを感じると同時に強い感情が嵐のように流れ込んできた。
読んでくださりありがとうございました。誤字脱字や分かりにくい表現等、お気付きの点がございましたら教えていただけると幸いです。少しでも今後の改善に繋げる為、よろしくお願いいたします。