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結刃流花譚 第2章 ~ 過ぎし春の忘れ音 ② 天が泣く朝 ~


    




 脆く、儚く、淡く、砕け散ったそれは
 いつしか心を蝕み尽くすか
 それとも強靭な刃と化すか―――――――


****************



 再び意識が朦朧とし、次第に重なりゆく白い靄に視界が包まれてゆく。すべてが白になり、また白が溶け始め、広がる景色が明瞭になってきた時には場面が変わっていた。眠っていた感覚はないが、どうやら眠りから覚めたところのようだ。

 柔らかい春の朝日が差し込む部屋で、清春は心に大きな穴が空いたような感覚を覚えたまま、重たい瞼を持ち上げる。
 この漠然とした喪失感と虚無感は、忘れることのない、今しがたなぞり直した記憶の翌日のものだ。
 辛くとも哀しくとも、知りたくなかったとは言っていられない、受け止めなければならなかった受け入れ難い現実を、変えようのない事実を知った。

 昨日、姉の訃報を聞いた後は真光が作り直してくれた味噌汁もあまり喉を通らないまま、誰ともほとんど会話をすることなく、耳の布の交換だけを天音に頼み、そのまま布団に入り眠ってしまった。頭まで隠すように、できるだけ小さくなって。
 頭と耳は痛むが、一晩時が経つと背中の痛みは幾分ましになっており、起き上がることはあまり苦痛ではなくなっていた。気持ちは心臓に鉛が入っているかのように重たいが、動けるようになったのならばいつまでも寝ておくわけにはいかない。
    昨日丸1日立ち上がることがなかった所為か、立ち上がった瞬間、足に上手く力が入らずふらついてしまう。体勢を立て直すと障子戸の近くまで覚束無い足取りでゆっくり歩く。
 障子戸を開き、部屋を出て顔を洗いに行こうとすると、客人があったのだろうか、玄関の方から声が聞こえた。今日は庵の手配してくれた医者が来てくれる予定だが、その刻限にはまだ早い。

 この家の間取りはまったく把握していないが、庵は基本的には奥の間で傘張りをしていると聞かされていた。既に陽は昇り、暖かい陽射しと風が家の中にも麗らかな空気を持ち込んでいる。全員が起きていないということはないだろうが、誰も来客に気付いていないかもしれないと思い、清春は手で簡単に衣類と髪を整え声の方へと向かってみる。
 土間へと続く廊下の曲がり角まで来ると、開かれた玄関の戸の向こうに若草色の着物を着た女性が立っているのが見えた。清春の心配とは裏腹に、庵は既に対応に出ており、客人と向き合っていた。
 
 
 
「――――――あんたが援護に行ってたら奏は助かってたかもしれないのに......! 」

 絞り出すような震えた声だった。
聞こえてきた言葉に反応し、清春は足を止める。少し心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
 女性の悲痛な声は勢いを増し、畳みかけるように続けられる。

「なんであんたは平気な顔してんのよ! 近くに居たんでしょ!? 状況を想像するくらいできたでしょう! 」

 感情に任せて言葉を放つ女性とは対照的に、庵は清春たちに話していたのと変わらない抑揚の少ない口調で返す。

「状況をある程度は想像した上で、兄妹の逃げた方へ向かった。
 事前の対策もしてはいたが、今回の襲撃は予想を超えるものだった。俺が行ったところであの場の惨状は変わらなかっただろう。
俺は隣の村に控えていたが、奏が戦い続け、兄妹を村から逃がしたと杏から聞いた時、向かえるのはどちらか一方だけだった。
 私情を挟まず誰に対しても平等であろうとし続け、それを貫き通せず家族だけでも助けたいと思ってしまう自分を責めながら、それでも自分に何かあった時には家族を守ってほしいと頼んできたあいつの願いを優先して聞いたまでだ」

 声にも表情にも表されない庵の感情を推測することは困難であるが、語られる内容に、清春の全身が心臓になったかのように、鼓動は早く大きく、その勢いを増していく。決して大きな声量ではない庵の言葉が充分に聞き取れるよう耳を澄ませ、玄関付近の壁に身を隠し、無意識のうちに息を止めて聞いていた。

「奏の願いを聞くんなら、尚更現場に行くべきだったんじゃないの!? 村の被害は止められなくても、奏を助けて兄妹に追いつけば一緒に助かった可能性だってあったじゃない! そもそも危険があると知ってたなら、なんでもっと早く気付ける場所にいなかったの!? 」

 数々の非難の言葉に、庵はあくまでも冷静に答える。

「援護に行くこともできなかったわけではない。だが、単独での襲撃でない限り、兄妹が逃げている間に他の者に襲われなかったとも限らない。
 状況を知るのが遅くなってしまった点については詫びる。だが、早く知って助けに行ったところで、あいつのとった行動は変わらなかっただろう。俺に兄妹を託し、1人で闘おうとする。そういう奴だろう」
 
 何しろ、あいつが最期に戦ったのはおそらく――――――。
 そう続けようとしたが、余計な事だと思い、庵は一旦言葉を切る。

「ふざけんな......! 奏のことわかってるふりしないでよ! あんたは奏を見捨てた! それを正当化するために理屈を並べてるだけよ」

「ふざけてなどいない。そう思うならそう思っておけばいい。人の家でいつまでも騒がれては迷惑だ。用事がないのなら帰ってくれ」

 
 
 
「......この、人でなし」

 清春の位置から俯くその表情まで明確に窺うことはできなかったが、女性は苦しそうな声で言葉を絞り出すと、踵を返し庵の家を後にした。

    徐々に遠ざかっていくその後ろ姿は心細く、空は晴れているのに彼女の上にだけ雨が降っているような錯覚を起こさせた。
 
 
 庵は姉を助けに行く選択をすることもできた――――――――が、姉の意思に反するそれは選ばなかった。もしかすると、別の選択をしていたならば、今、姉は生きていたかもしれない。実際、わかっている範囲では、清春たちに追手はかかっていなかった。
若草色の着物の女性が言っていたように、姉を助けることを優先していても姉の意思は守られていたのではないか――――――――。助けてもらっておいてこのように考えてしまうことは筋違いだとわかっているが、生まれた考えは澱のように心の底に留まってしまう。

「清春」

 廊下の曲がり角で動けないままでいた清春を庵が呼んだ。

「......!!」

 一瞬動揺し、心臓が跳ねる。いつから気付いていたのだろう。話を聞いていたことに悪意はないが気を悪くしてしまったかもしれない。状況に関わらず誰かに聞かれたい会話ではなかっただろう。
    不安な気持ちが過ぎるが言い訳は必要なく、問われれば成り行きを説明し、素直に謝る他はない。咎められるなら自分の非を認め、その言葉を受け入れる。
 清春は神妙な面持ちで庵の立つ玄関まで歩みを進め、その横に立ち身体ごと向きを変えて庵を見上げ、そしてまた頭を下げる。
 
「立ち聞きしてしまいすみません」
 
「別に構わん。おまえも俺を憎むか?」
 
 予想された咎めの言葉は庵の口から出てくることはなかった。その代わりに続いた庵の言葉にはやはり抑揚がなく、このような時でさえも感情が読み取れない。
 答えを用意していなかった庵からの問いかけの言葉を心の中で反駁し、結果だけを見て、すべてを状況を推測していながらこの選択肢を選んだ庵の所為にできたらどんなに楽だろうかと思ったが、それは違う、そんなことはできない、と清春はすぐに自分で自分の考えを否定する。何と告げるべきか逡巡し、迷いながら口を開く。
 
「......いえ。今の会話から理解できた範囲では......。
 姉さんには自分を犠牲にしてほしくはありませんでしたけど、それは姉の決めた行動です。庵さんが俺たちを助けてくれたことや姉さんの気持ちを大切にしてくれたことには感謝します」

 これまで姉に聞かされてきた仕事の裏の遥かに重い事態に戸惑いや疑問が生じている。姉のしていたことは本当はどのようなもので、誰の為の、何の為のものだったのだろうか。少なくとも、姉は一昨日のような事態を予想し、清春たちには告げないまま清春たちを守ろうとしていた。自分が守れなかった時の代役としてそれを託した庵は、姉にとって信頼に足る存在なのだろう。
    庵のことを信じたいと願いながらそう考える。一方で、先ほどの女性の声と表情もそれと同時に甦る。彼女のことも悪者にはしたくないと思い、控えめに続ける。

「でも、さっきの人も姉さんのことを大切に思ってくれていたようで、会ったこともない俺たちのことも心配してくれてたみたいで、それなのに......」

 その時、気の所為かもしれないが、見上げていた無表情の庵の顔に悲しげな色が浮かんだように思った清春は、その続きは言うことができなくなり、口を噤んでしまう。
    そこで初めて庵の気持ちを推測することができた。本当はあのような態度はとりたくなかったのかもしれない。
 少しだけ冷静になった清春は彼等の会話を聞こえていた場面からできるだけ正確に思い返そうとする。どちらのこともほとんど知らないが、姉を大切に思い動いてくれていたのだろうということは伝わってきていた。そんな2人の先程の姿、女性を突き放すような庵の態度も、女性が最後に庵に放った言葉も、互いに姉の死により傷付いた自分を守るために必死に繕った痛々しいもののように思えた。
 悲しみの大きさなど比較するものではないが、自分たちと同じくらい、姉の死を哀しむ彼等もまた、深い傷を負ったのだろう。

 庵から目を離し視線を彷徨わせた時、清春の頬を濡らすものがあった。それは一滴だけ、涙のように滴り落ちる。晴れている空から本当に雨が降ってきた。

「俺はおまえらの姉の仲間だと言ったが、それを認めるかそうではないと判断するかはおまえの自由だ。
 俺がおまえの姉を助けないことを選んだのは事実だ」

 奏の意志を尊重し、奏自身の命よりもその大切にしたいものを守った。それが正しかったのかどうか、庵自身にも分からない。これで良かったと思い込もうとしても上手くいかない。
    今の庵の心には何者にも埋められない穴が空いているようだった。悲しいが、その感情を正しく表現する方法は忘れてしまった。一層の事、感情ごと忘れることができれば楽なのに、と心の中で自嘲する。そのような資格はないのに感情に振り回されそうになる自分を隠すために、冷たい言葉を選び続ける。

 清春は混乱する自分の心を整理するように、ほとんど汲み取れない庵の心を探すように、精一杯の言葉を紡ぐ。

「俺は、庵さんが悪いとは思えません。――――――思いたくありません。闘う姉1人を置いて逃げたのは俺も同じです。あの時は樹と天音を安全なところへ連れて行くのに必死でした。
 でも、姉の生きていた今を想像すると、これで良かったのか、他に道はなかったのかと考えてしまいます」

 誰もが生きることを続ける中で何かを選ばなければならない時と出会う。迷おうと迷わまいと関係なく選択を余儀なくされ、その結果に対する責任を負わされる。繰り返し、繰り返し、背負うものが増えていく。その中で誰かと衝突し、傷付けたり傷付けられたりを重ねていく。理不尽な結果に行き場のない怒りや悲しみも生じる。生まれた負の感情は、違うと分かっていても誰かに向けなければ自分を保っていけないくらい深いこともある。
 姉を犠牲に生き延びてしまったことへの後ろめたさと心苦しさ、逃げることしかできなかった自分の弱さに対する悔しさ、弟と妹が助かったことへの安堵、最期まで守り続けてくれた姉の想いを受け止める温かさと痛み、姉の想いを汲んでくれた庵への感謝、それでも姉が助かっていた可能性があったなら他の選択をしてほしかったという我侭、そう思ってしまう身勝手な自分への嫌悪、同時に湧き上がる多数の感情が清春の心の中でせめぎ合う。その中でできる限り真摯に答えたつもりだった。

 庵は一瞬清春に悲しげな視線を送り、すぐに外す。随分年が離れているはずの清春からの心遣いに心が少し痛くなっていた。血は繋がっていないのに、誠実さは奏とそっくりだ。詳細を話す必要はない。奏の命を見捨てたのは事実なのだから、憎んでくれた方が楽だと思う。だが、それでは守ろうとした奏に託された役目が堂々とは果たせない。それ故に苦しみながら紡がれたであろう清春の言葉に安堵してしまった自分がいることに不快感を覚える。それも隠すように、庵はまた感情を殺し、淡々と告げる。

「それでいい」

 それがどの言葉に対するどういった意図の返答だったのか清春には分からなかったが、落としていた視線を上げ、庵の顔を見る。

「それが俺を憎まない理由になるのか、俺にはわからん。おまえの考えや行動に意味を持たせるのは今後のおまえだ。何が正解だったのか、後になっても答え合わせのしようがないものはたくさんある。間違っていたとしても、迷い悩んだ末におまえの信念に基づいて選んだ道ならば、責任を持ってその先を進め」

 声に感情が込もっていないようでも、その言葉は確かな温度を持って清春の中に深く入り込んできた。悩み続けていても、迷い続けていてもいい。その選択が正解だったのかどうか答えが出ないままでも、不安なままでもいい。自分で選んだ道は自分だけのものだ。
 心の蟠りが消え切ることはないが、気持ちは少し軽くなったような気がした。

 庵は己自身の言葉を自分にも言い聞かせるように心の中で反芻する。この選択が正しかったと信じて進まなければ、奏の死を無駄にしてしまうように感じ、すべてを受け入れ背負っていくことを決めた。

 それが彼なりの奏の想いの守り方だった。





    拙い文章ですが、読んでくださりありがとうございました。何かお気付きの点がございましたら教えていただけますと幸いです。

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