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正しさと悪徳のブレイクビーツ

 先日、自分のツイッターのTLにこんなコラムが流れてきた。

 ざっくりまとめると
「私(筆者)はHIPHOPが大好きだけど、HIPHOPの現状はミソジニーにまみれている。そんなんじゃ、ひとにHIPHOPが好きだと誇れない。HIPHOPファンは思考停止しないで、ミソジニーに根ざしたHIPHOPカルチャーの病根を直視して、ちょっとでもいい方向に変えていこうよ。」
 という論旨だ。

 正しい。圧倒的に正しい。
 が、その正しさがゆえに危うい。

 僕がそう思うのは、つい先日アメリカ合衆国の映画産業界隈で、リベラルとオルトライト両陣営が互いに「(いわゆる”ポリコレ棒”の発展概念としての)ポリコレAK-47」を装備して「正しさの銃弾」を浴びせ合い、互いの主義思想にそぐわないクリエーターや業界人のキャリアを潰し合う……そんな不毛でいつ果てるとも知れない「相互私刑ソーシャル・ジャスティス・シヴィル・ウォー」の時代に突入した瞬間を目の当たりにしたからだ。
 日本でも某有名ロックバンドやアニメ化を控えたラノベとその作家、海外で最高の栄誉に輝いた映画作品などが、この不毛な私刑合戦の戦火に見舞われた。「有名ロックバンド」と「海外で最高の栄誉に輝いた映画」はしたたかに生き残り、ラノベは後ろ盾の弱さゆえか原作者の作家生命ごとアニメ企画と原作書籍が燃やし尽くされた。

 「正しさ」というものは人間にとってとても魅力的なコンテンツだ。自分が「正しさ」に属していると思うと誇らしくて気持ち良くなる。「正しさ」に寄り添う限り、自分は間違っていないと確信できる。この「正しさ」を守るためなら、教え広めるためなら戦える。この身を捧げてでも、まだ「正しさ」の祝福に帰依してない人々には「正しさ」を教え導いてあげたいと思う。こんな素晴らしい「正しさ」を受け入れない人は「正しくない」のだから、すみやかに悔い改めて私の信じる「正しさ」に改宗するべきだ。それが出来ないのなら排除するしかない。慈悲など無い。私にはその権利と義務がある。だって私は「正しい」のだから。

 「正しさ」を奉じた闘争は容易に妥協することができず、必ずと言っていいほど泥沼化する。それは歴史が証明している。そして、日々あらゆるメディアで「正しさ」を奉じた闘争が絶えず繰り広げられ、それらのすべてが泥沼の殲滅戦の様相を呈している。

 話を最初に挙げたコラムに戻そう。誤解を恐れずに雑感を言えば……いや、偏見全開で暴言を吐けば……
 はいはい、「進歩的でリベラルで正しい私」が愛好するカルチャーは、清らかで無謬でどこに出しても恥ずかしくない洗練されたものであって欲しいんだね。わかるわかる、そうじゃないとおともだちに胸を張って「HIPHOPが好き」と言えないからね。誰だってミソジニーを肯定してると勘違いされたくないものね。え?なに?みんなが私の話を聞いてくれない?私は正しい話をしているのに?それはそうでしょ、そのひとたちは「正しいから」HIPHOPが好きなわけじゃないんじゃないの?しらんけど。

 ゴホン……失礼、少々取り乱しました。
 要はそんな身の丈の合わない「正しさの答えあわせ」をHIPHOPカルチャーに求めるのことは、はたして賢明なのか?という話だ。HIPHOPに限らずROCKやPUNKだって、いつの世にも人が遵守することを求められる倫理道徳や社会規範、モラル、常識などの「正しさ」では救われない、世間的には「正しくない」という烙印を押される側の人々の魂の受け皿になってきた音楽/カルチャーではなかっただろうか。
 HIPHOPより早く生まれた分、ROCKやPUNKが「安心して若者に聴かせられる正しい音楽」に成り下がった……いや、成り上がってしまった今、HIPHOPがこんにちにおいてひときわクリティカルでやり玉に挙がることが多い(かつ批判に対して反論することすら社会的なリスクを伴う)ミソジニーという「不正義」を内包し続けているのだとしたら、僕個人としてはどうしてもそこにある種の希望を見出さずにいられないのだ。

 ごく狭いサークル内でしか通用しないコンテクストを有する尖ったカルチャーが外部に伝播し、ついには一般化、大衆化するということは、そのような仄暗い闇の輝きを放棄することとトレードオフなのだろう。しかし、もし仮にこれからのHIPHOPカルチャーがミソジニーを封印し、その上で権力者やセレブリティを批判しつづけたところで、僕は「はいはい、政治家や金持ちはいくら罵っても誰からも文句言われないもんな」と思うだけだろう。

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