不的中の希望
金銭を得ること以上に「的中」の悦びは大きいようで、Twitterの海を少し泳ぐと、朝から晩まで大量の「的中報告」を目にする。かく言う私も、自分にとって手応えのある予想については、的中とともにそれをツイートすることがある。誇らしげな気持ちがないと言ったら嘘になる。
しかし、それと同じくらいの熱量で、私は「手応えのある不的中」も公開している。これは、読者に平等でありたいとか、負け惜しんでいるとかではなくて、本当に心の底から「賭けてよかった」と思っているからだ。
たしかに外れて悔しいものの、だからと言って3-1-5を買っておけばよかったとはならない。それは、3-1-5なんて来ないと思っているからではなく、自分なりの根拠で以て検討した上で切っているからだ。これが、たとえば「⑤大峯について何も考えないで買って抜けた」といったようなケースであれば、それは反省すべきである。しかしながら、ここではその検討は済ませてあるのだ。もしかしたら信念の修正は必要かもしれないが、このレース単体での反省は不要である。
本来不要な反省なのに、他人がこぞって的中させていると、どうしても自信を失ってしまうのが人間である。ホモサピエンスは社会的で臆病な動物であり、他人と同じように思考する方が本能的に楽なのだ。この集団的思考に抗うのは理性を要する。理性を要する行動は疲れる。よって、長いものにどんどん巻かれていく。
けれど。
自分が信念を持って切った出目で決まったレースを、一方で的中させている人が大勢いることは、恥でもなんでもなく純粋な「希望」なのだ。
ポリシーは十人十色で、その中でどれだけ他者より優れているかを競うのが公営ギャンブルだ。ポリシーにも残念ながら、期待値という尺度で見たときの優劣はある。たとえば「ファン買い」は、まったくもって悪いことではないが、金銭的な期待値の面で言えば劣ったポリシーだ。もっとも、そんなことは言われなくてもわかっていることだろう。あえて指摘するのは無粋というものだ。
金銭的な期待値を追求するためには、鋭いオリジナリティが必要である。その観点から言えば、自分と似た買い目で組んでいる他者が多いのはマズい。トム・ソーヤの冒険で名高いマーク・トゥエインが「自分が多数派側に入っていることに気づいたら、立ち止まって思案すべきだ」と言っているように、オリジナリティの有無に関するシグナルには、常に敏感でありたい。
サイコロを振っても120回に1回は当たる競艇において、いい配当を的中させることの価値はとてつもなく低い。一方で、いい不的中を積み重ねられるかどうかは、紛れもなく「能力」だ。
個性的な不的中には、今後何かを成し遂げられるかもしれないという希望が内在している。嘆く必要など微塵もない。