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ロマンティック理解


理解しないことで給料をもらっている人に、それを理解させるのは難しい。

 - アプトン・シンクレア

 テレビで高校野球を観ていると、眼光鋭いスカウトマンが熱心に球児の姿を追いかけている光景を目にする。質のいい生徒を見つけ、ドラフトの参考材料にするのだ。あるいは大学への勧誘か。いずれにせよ、そこでは目利きの才能が必要になる。
 しかし、たった数試合観ただけで素質など見抜けるのだろうか。それが長年の経験だと言うなら頭が下がるが、私のように簡単に頭を下げなかった男がいた。名前をビル・ジェイムズという。彼はスカウトマンの抽象的な「目利き」に真っ向から反発し、数学によって選手の能力を定量化することを試みた。顛末は以下に詳しい。映画も有名だ。

 当然、経験を重んじるスカウトマンは気に食わない。そんな手法が明るみにされたら、自分達の仕事がなくなるからだ。しかし戦いはすぐに終わり、今ではすっかり定量計算が浸透した。セイバーメトリクスというひとつの分野にまで成長したのである。

 野球界に比べて、ギャンブル界隈は相当に未熟である。それをどうにかしたいと思った時期もあったが、今では「未熟だから楽しめているのだ」と考えるようになった。
 展示で何かを見抜こうとする人は、古のスカウトマンに似ている。実際に何を見抜けたのか、どれだけ頑張ったところで定量化などできない。あの選手が活躍するかもしれない。そんな直感を抱くのは自由だが、展示と本番レースの相関関係を調べたことはないだろう。自分の直感と「実際の成績」にどれほどの関連があるのか、それを知らないまま直感を盲信するのは、一言で言えば未熟だ。
 いやいや俺はデータ派だよ、と胸を張った人は、そのデータの使い方を誤っている。逃げ率80%は「そのレースで80%逃げること」を意味しない。タイムと本番レースにどのくらい相関関係(また出てきた!)があるのかは定かではない。期待値などと軽々しく言うが、それはけっして数値化できない。こちらも、関連を知らずに数字を盲信しているという点では未熟そのものだ。
 しかし、そんなことをひとつひとつ指摘したところでどうしようもない。舟券を買う楽しみが一切なくなるだけだ。

 ギャンブルにおける大部分のことを、私たちは理解していない。理解していないから今日も前を向いて賭けられる。楽しみを持続させることができる。大半の人にとってギャンブルとは、気持ちのいい直感や分かりやすい数値に踊らされながら、理解していないことを楽しむ遊びなのだ。
 それでもごく稀に、すべてを理解しようとする変態に出会う。そんな人種にとってギャンブルは、何だか物凄く厄介で、とてもじゃないけど手放しで楽しめるようなものではない。ただ、理解が進むにつれて、別の楽しみと遭遇したりもする。いずれは自分がギャンブルで勝てる理由を言語化できるかもしれない。それは、単にギャンブルを楽しむ上ではまったく必要のないことだ。必要のないことだから、ロマンと呼びたくなる。

 こんなロマンを理解してもらうのは、シンクレアが言うように「難しい」かもしれない。理解せずに楽しめる方がむしろ理にかなっているとすら言える。負けたところで、負けた分くらいの快楽を得ているならそれでいいのだ。勝つことを、そしてその解明のための種々の苦しみを「ロマン」と捉えるような変態は、ある意味不合理な生き物だ。
 だから私には——この不合理さにロマンを抱いてしまった変態には、言葉を尽くす義務がある。世界を広げるといったら大袈裟に聞こえるかもしれないが、こんな楽しみもあると知ってもらいたいのだ。説明責任は私にある。あなたの楽しみの邪魔をして本当に申し訳ない。せめてちゃんと書くから、興味があったら覗いてほしい。

 なぜ勝っているのに秘密にしないんですか? という馬鹿げた質問がある。
 情報や思考をわざわざ公開する、そのこと自体がロマンだからに他ならない。墓場に金は持っていけないが、刻んだ足跡は、もしかしたら遺ってくれるかもしれない。それがロマンでないと言うなら何なのだろう。






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