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お前は俺に嫉妬している
雀荘において、礼儀正しく「今日で辞めます」と言って去っていく従業員はほとんどいない。連絡が途絶えて、それっきりというのが大半だ。そしてその原因のほとんどは何らかのトラブルである。
以前、同僚が客と違反行為をしているのを見つけたことがあった。詳細は避けるが、露呈したら解雇されてもおかしくない内容だった。その同僚は麻雀が強く、店の中では勝ち頭だった。それだけにショックだった。
オーナーに伝える前に、その同僚に直接問いただした。それは自分の優しさだったように思う。これは間違っている。改めるべきだ。いたって当然のことを彼に伝えると、こんな返事があった。
「お前、俺が勝ってるからって嫉妬するなよ」
あまりに馬鹿馬鹿しくなって、その話を打ち切った。すぐに別件がバレて彼はお約束通り音信不通になったのだが、その言葉だけはずっと胸中に残っている。
嫉妬という感情の根源を辿れば、それは生存競争における不利な配分を是正するためのものだ。百人で獲物を殺したのに、肉を少ししか貰えなかったら、自分より貰っている人間を妬む。妬むことでエネルギーに変えて、それはおかしいと声を上げることができる。小さな集団で生きている場合、そうして差別は解消される。大きな社会であれば、声だけが響いて何も起こらなかったりする。
このように、誰かから誰かに向けられた批判に嫉妬という感情が内蔵されていることは多い。そしてそれを逆手にとって、自分に向けられた批判をすべて嫉妬に帰属させるという悪癖もまた、この世の中に溢れている。
お前は俺に嫉妬しているだけだ。批判を受けた人間がそう考えるのは、まったくもって理にかなっている。それもそのはず、そうすることで自分を持ち上げ、かつ相手を押し下げることができるからだ。
誰だって批判されたくない。自分の価値が下げられることは、生存戦略においてはっきりとマイナスだ。耳が痛ければ塞げばいいのだが、上手く塞ぐためには理由が必要である。そのとき、相手から向けられたものすべてが「嫉妬からきている」と「思い込む」ことは、大変有効なセルフコントロールなのだ。
嫉妬は不利な配分を受けている、いわば弱者が抱く感情である。つまり、相手が自分に嫉妬しているのだと思い込めば、簡単に自分が強者だと勘違いすることができる。その自己暗示そのものは合理的だ。フォロワー(追従者)がいればなおよい。自己暗示はやがて自信になり、強大な勘違いとして個体を覆いつくす。
個人的には、どんな批判であれ「それは嫉妬だろ」と思わないようにしている。たしかに、どう考えてもジェラシードリブンのご意見を頂戴して、自分の中の村上春樹がやれやれと呆れることもないとはいえないが、それでも少し立ち止まって考える。
自分が行き過ぎたとき、それはだいたいが無自覚なのだ。止めてくれるのは他人しかいないが、残念なことにフォロワー(味方)にそれはできない。自分だって、仲の良い人の鼻先を思いっきり殴ることは躊躇ってしまう。それができるのは、自分のことをさほど好いていない、もっと言えば嫌いな人間だ。
たしかに批判は辛い。腹が立つ。しかし、それを受けて考える瞬間だけが成長に繋がる。自分のことを嘲笑ってくれるような「アンチ」は、唾棄すべき存在などではなく、耳を傾ける価値のある人間なのだ。もちろん、しっかりと話を聞いた上で後悔することもあるが、その迂回くらい、機会損失に比べたら大したことではない。
実生活では、おおよそ気の合う人間しかいなくなってしまった。それはそれで居心地がいいのだが、顔の見えないSNSくらい、言葉と言葉でぶつかってみたいとも思うのである。