カラオケと人生
先日、数年ぶりに団体でカラオケに行った。この年齢(社外秘)になるとそんなに足の向かない場所だ。
同席した40代のナチュラル鬱病患者は「カラオケに行くと心臓発作を起こすかもしれない」と言っていた。その気持ちも分かる。人様の前で歌うのは緊張するし、空気の読み合いのような時間も生まれやすい。幸いなことにこのたびの会は、
①誰も気を遣おうとしない
②全員のツボが浅い
③おおむね同世代
という非核三原則が遵守されていたので、終始和やかだった。
薄い色のサングラスをかけた若い男が突然『唱』という未知の言語を歌い出したとき、その曲を聞いたことがないという発言があった。面白い。店でも道でもTikTokでも腐るほど流れていた曲だ。そのいずれも巧みにスルーしてきたのだからお見事である。
かまいたちの有名な漫才に「トトロを観たことがない」という題材があるが、それが面白いのも、トトロという国民的アニメをスルーしてきた人生そのものに"おかしみ"があるからだろう。
触れてきたコンテンツや趣味嗜好は、その人自身を映す鏡のようなものだ。つまるところ、それは「何に時間を使ってきたか」という話である。時間とは命そのものなので、大袈裟に言えば「残りの命と引き換えに何をしてきたか」だ。飲食に使ってきた人もいれば、ギャンブル、旅行、アニメ、推し活、それらは等しく命と交換されている。
その人が使った時間は、その人自身に刻まれて、別の人はそれをふとした瞬間に垣間見ることができる。人間関係の醍醐味はそこに集約されると思う。自分の人生は一度限りだが、いろんな人生を少しずつ見ることができて楽しい。どんな曲を歌うのかという至極単純なことでも、その背後に人生を見つけると面白い。
この素晴らしき人生が一度で終わってしまうなんて耐えられないから、たくさんの物語に触れて生きていきたい。
どんな趣味を持っていようと、どんな悩みがあろうと、どんな捻くれた考え方だろうと、無責任な読み手からしたら、それらは等しく「興味深い物語」なのだ。それが救いになるかは分からないけれど、少なくとも"この"物語を無責任に楽しんでくれる読み手はいるだろうから、2024年もこうして書いていく。