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反省しすぎ


 小学校低学年の頃、お年玉年賀はがきの1等を当てた。正確に言えば父親宛の年賀はがきだったが、当然自分のことのように喜び、景品一覧を眺めた。沖縄旅行に家族で行った。今までの人生で「1等」を当てたのは、あれが最後のことだ。プライベートプール付の部屋が懐かしい。
 小学生の後半は塾の記憶しかない。中学受験をするために、今では考えられないほど過酷な勉強をしていた。けれど、それは苦痛ではなかった。苦痛を感じるような鋭敏さがなかったのだ。無事第一志望に合格した。今までの人生で最大の「成功体験」である。ちなみに大学は滑り止めだった。

 前者は「運」で、後者は「実力」の記憶フォルダに保管されている。これは正しいのだろうか。

 お年玉年賀はがきの当選は、自分の力ではどうしようもない出来事だ。当てようと思って当てられるものではない。一方で中学受験は、どうやら私の努力が実ったように見える。しかし、そこに「運」の要素がなかったとは到底思えない。
 私は受験当日にお腹を壊さなかった。緊張して解答欄をズラすこともなかった。漢字はすべて思い出せたし、おそらく計算ミスもしなかった。そうでなかった可能性もあるのに、だ。

 人は出来事を経験すると、起こり得た他の可能性を一瞬で忘れる生き物だ。未来の可能性はたくさん想定できる(私が中学を4つも受けたように)。それなのに、過去のことはあまり反実仮想できない。
 起こった出来事を「実力に依るもの」だと信じすぎる。正しい理解は「実力の要素もあったが、運の要素もあった」というものだろう。しかし大切な後半部分は一瞬で忘れ去られてしまう。受験をする前には神頼みをするくせに、受験に合格したらお礼参りはしない。その滑稽さに気づかないまま、人は多くのことを過剰に信じ込む。一切は成り行きだと考えられない。だから失敗すると苛つき、嘆き、絶望するのだ。

 あなたがいま当てられなかった舟券は、あなたがあなたの意思で紙屑にしたのではない。けっしてそうではないのだ。目の前のレースの結末は「運」でしかなかった。複雑な物理が入り組んで、たまたま4-1-3になった。あなたはたまたまそれを買っていなかった。
 あなたは目の前のレース結果を見て「反省しすぎ」だ。

 反省すべきものがあるとしたら、それは予想の「実力」ということになるのだが……実力というのは、結果に対して「自分でどうにかできる要素」のことである。そんなものあるだろうか。
 4-1-3という結果に対して及ぼせる実力などない。これが紛うことなき結論である。未来は誰にもわからない。ゴールラインを3艇が通過するまで、結果は誰にもわからないのだ。あなたは「わかっていた」から的中したのではないし、わからなかったから不的中したわけでもない。単純にその舟券を「持っていなかった」から払い戻しがなかった。それだけだ。

 勝ちたいのであれば、反省すべきことは他にある。その舟券を買うに至ったプロセス、心理状態、直前判断、そもそものレース選択、それらがどう論理的に担保されているか、あるいはいかなる根拠で運用しているものなのか、その運用システムに検証しきれていない部分はないか、採用しているデータに統計的信頼があるのか、感覚に頼っている部分と数値に依存している部分が毎回ちゃんと区別できているのか……。
 ただ、目の前の「結果」に対して、反省すべきことはひとつもない。

 人は原因と結果を結びつけるのが好きだ。原因と結果に何らかの物語を用意しながら歴史を作ってきた。これは本能なのだ。
 それでも、その物語から逸脱して、あらゆる出来事を「出来事単体」として受け止め続けてみたい。

 そうでなければ、わざわざ不合理なギャンブルで「勝ちたい」などと夢想している甲斐がないのだ。



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