競艇、それは苦しい
時間を売り、頭を売り、ときには体を売って稼いだ金を、おおよそ確率通りであれば75%になって返ってくる「純粋な損」に遣っている。いったいどうしてだろうか。
ギャンブルでしか得られない興奮にコストを払っている、という言い訳はあるかもしれない。楽しいのだからそれでいいだろう、そんな声も聞こえてきそうだ。勝つかもしれないじゃないか。現にいま勝っている――様々な立場があるだろう。
しかし「今後も勝てる」ことが保証されていないのは、全プレイヤーに共通する真実である。
そして、失った、あるいは今後失う金銭と比べて、得られているものが釣り合っているかどうか、正確に見積もれないのもまた真実だ。
ギャンブルに参加すること自体が、間違いなく不合理である。生きるためにはどうしたって必要ない行為に思える。
しかし、ここで「生きる」と安易に使っていいものだろうか。
たしかに「生き延びる」ためには不要である。あらゆる娯楽は「生き延びる」ことに何ら寄与してくれない。不要不急という言葉が人口に膾炙した昨今、娯楽がどういう位置づけであったか記憶に新しいことだろう。それでも私たちは、娯楽や文化、そして賭博なしには「生きられない」ようにできている。
生き延びることと「生きる」ことは明確に違うのだ。
人間は不合理な生き物である。本来生き延びるだけでいいのに、そこに「生きる」ことを求める。子孫の繁栄のみを考え、プログラミングされた本能で生殖し、少しでも種を殖やすために食物を摂取する――人類以外の動物の方がよっぽど合理的だ。
私たちは、厄介なことに「精神」を極限まで発達させてしまった。哲学を持ってしまった。合理的すぎると、自分の中の何かが死んでいくことに気づいてしまった。だから、人間は不合理さを愛するようになった。健康に悪影響しかないのにアルコールやニコチンを摂取し、不要な糖分を過剰に摂取し、観ても寿命が延びないのに映画館へ行き、怪我のリスクをおかしてまでアウトドアにいそしむ。
損をする可能性の方がよっぽど高いのに、貴重な財産を、自分の人生に何ら責任を負ってくれない他人にベットする。
偶然生まれてきた私たちは、発達した精神で以ってそこに意味を見出そうとするものの、世界の数多の偶然に翻弄され、もがき、苦しみ、それでも「生きて」いる。
何かに似ていることに気づくだろう。
そう、数多の偶然にまみれた、不合理で理不尽なギャンブルを愛するのは、人間存在の本質なのだ。
たかがギャンブルだからと肩の力を抜くのもいい。勝てると信じて突き進むのも一興だ。
一度きりの人生である。
そこに意味がなくたって、不合理に満ち溢れていたって構わない。
尖った冬の冷気が皮膚を突いたとき、その痛覚に「生きている実感」を抱く。
人生は苦しく、理不尽だ。それを純粋に表現してくれるギャンブルが愛おしいのは、私たちが心のどこかで、自らの人生そのものを、ほんの少しでも愛したいと思っているからなのかもしれない。