何のために?
とあるボレジョがこんなことを言っていた。曰く――推しが好き!じゃなくて推しを推してる自分が好き♡みたいなやつ見ると反吐が出る。なるほど。ここで嫌悪感を抱く前に、なぜそういう発言がなされたのか(なぜそういう思考に至ったか、ではない)を考えるのが人類学の宿命である。
人間の究極的な目標は、生存することと生殖することだ。およそすべての行動は、還元するとそのためにある。たとえば喫煙は、直感的には生存のために役立たないように思えるが、積極的に有害な物質を摂取できる自身の強さを誇示することで、それが結果的に生殖に有利だと解釈される。もっともそれが勘違い(遺伝子のバグ)であれば、やがて淘汰(デバッグ)されるだけだ。積極的に毒物を摂取する遺伝子が必要であれば生き残る。
件のボレジョは、その発言をすることで何らかの利益を得る。そう本能的に考えたからしたわけだ。ではどんな利益があるだろう。再度眺めてみる。
これを分解すると、推しが好き!(=自分)に比べて、推しを推してる自分が好き(=誰か)は劣っている、そう解釈できる。彼女にとってその誰かは敵であり、本能的に排除したい相手なのだ。人が人に敵意を向けるときは、例外なく排除欲求が奥底に存在する。
あるいは、自分はそういう人間(推しを推してる自分が好き)ではない、という表明ともとれる。その場合、そういう人間だと思われると損だと考えていることになる。いずれにせよ、彼女は純粋に推しが好きだというポジションの方が価値が高く、それを表明することで本能的に利益があると捉えているわけだ。
何かを純粋に応援することは、不純な動機で応援することよりも褒められる。偽善という概念と似ているだろう。純粋な気持ちで募金をすると素晴らしい人間だと思われる。しかしその行為をツイートした瞬間、その人は偽善者のレッテルを貼られる。人は行為の内容だけでなく、それが為された心理も評価する。
推しを推すという行為に差がなくても、推しを推す動機に優劣を見出す。それが、件のボレジョが本能的に行った価値判断だった。
しかし残念なことに、自分が思っている動機がどうあれ、推しを推すという行為に純粋もクソもない。推しを推すことで何らかの得があるから推すのだ。それは生存に役立つ精神的な得かもしれないし、生殖に役立つ肉体的な得かもしれない。その本能から、自分だけは目を逸らすなんて蛮行は許されないのだ。
「私にはそんなやましい本能ありませんよ」という表明は、このようにむしろ背後にある本能の匂いを際立たせてしまう。
女に興味なんかねーよ!と叫ぶ中学生男子から感じる雄の匂い、優しい男性が好きと宣う女性から感じる雌の匂い。その発言が何のためになされたかを考えると、例外なく本能的習性に行き着いてしまう。
そうであると分かってされた発言に、私は好感を覚える。本能に自覚的な人の方がむしろ理性的で、自分にとって有益な結果をもたらしてくれると信じているからだ。本能に無自覚な人とはそりが合わない。そりが合わないからといって、別に攻撃はしない。
というようなこの文章は、いったい何のために書かれたのか。