忙しくて、脳
目や耳などの感覚器官から信号が送られてくる。脳はそれを帯電したナトリウムイオンとカリウムイオンに変換し、神経細胞に出し入れする。コネクトームに電気的な力が起こって……というような、相当にエネルギーが必要なプロセスを、脳は一日に何度も何度も行っている。
脳の重さは成人男性で1,500g程度なのに、消費カロリーは全体の2割にのぼる。脳は小さい割に働き者なのだ。だから当然、サボらないとやってられない。
脳は効率的にサボる。たとえば下の有名な錯視を見られたい。
現実をそのまま受信するなら、この線は同じ長さに見えないといけないが、脳はサボる方法を知っているので、下の方が短く見える。
どうサボっているかというと、今までの経験に当てはめて「現実世界をモデリング」しているのだ。あなたが見ているのはありのままの現実ではなく、脳が作り出したモデルに過ぎない。
人によってそのモデルは様々だ。遺伝によって脳細胞は異なるし、胎児の頃から外部の影響を受け続ける。一人として同じ脳は存在しない。よって同じモデルも存在しない。牛を神様だと捉える文化もあれば、焼いて楽しむ文化もあるのだ。彼らは同じ「牛」を見ていない。モデルが異なるとはそういうことである。
同じ出走表を見ても、モデルによって反応は様々だ。私とあなたが見ている「出走表」は異なる。そして、過去の自分とも異なる。最初はモーター2連率の意味も知らずに、格で順番に買っていたかもしれない。それが、選手の特徴などを覚えてくるにつれて、出走表から何を考えるかが変わってくる。
異なる出走表を見ているのだから、予想が異なって当たり前だ。異なるオッズを眺めているのだから、投票が異なって当たり前なのだ。「同じギャンブルをしている」というのは幻想に過ぎない。
他者の思考の隙を突くのは難しい。人は異なるモデルを体験することができない。5歳のときの自分の脳で世界を眺めることはできないし、アゼルバイジャンの山奥で自給自足をしている老父の脳で世界を眺めることはできない。隣で悔しがっているオッサンの舟券を嘲笑う気持ちは分かるが、彼は自分と異なるモデルで世界を眺めている。それは純粋な興味を以て観察すべきことだろう。
他人と戦うのだから、他人の思考こそ重要な関心事であるはずだ。しかし、脳の構造はそれを想像するのに適していない。脳は、常に取り込まれる情報から「信念」を抽出しようとしている。こうしてコラムを読んでいる間にも、無意識でそう動いている。それはどこまでいっても主観的な行為だ。他の信念を客観的に理解することは難しい。
自分の世界モデルを育てつつ、他人の世界モデルを想像する。言い換えれば「視野を広く」というようなライフハックになるだろうが、その言葉に内在する意義はとてつもなく大きい。そんなに簡単なことではないし、本当にやりがいのある取り組みだ。
そして、この取り組みに興味を向けられるかどうかが、ギャンブルという理不尽な市場で勝つ唯一の方法だと信じている。これもまた、私のちっぽけな世界モデルの信念に過ぎない。しかし、私は残念なことに、自分のモデルを気に入ってしまっている。だから今月も競艇が楽しい。