帯でマクりたいだとか
人は真実ではなく嘘にこそ熱狂する。そんな言葉がある。つらつらと並ぶ予想屋の文言を見ていると、その格言も的を得ていると感じてしまう。最後に大回収、この選手がアツい、超抜群の気配。人はそういった「嘘」に寄りかかり、誰かの作った物語をなぞろうとする。
いくらリアリティを追求したところで、民放のドラマが美男美女以外を主役に抜擢することはない。人が欲しいのは、退屈な真実などではなく、飾られた虚構なのだ。それはギャンブラーだって同じである。
ひとつ不思議なことがあった。昨今、ギャンブル系のYouTuberは全世界のダンゴムシの数より多く存在する。戯れに動画を観てみると、青年が普通のレースに合計1万円賭けていた。熱中しながらレースを映す。ああだのこうだの言いながら3周を終えて、その1万円は紙くずになった。
驚くべきはそこにぶら下がったコメントの数だ。総勢100。8分弱の動画、どこをどう観ても言及したくなる箇所はなかった。青年が1万円を賭けて失うだけだ。予想も普通。レースも普通。3周2Mで先頭がルーキーに抜かれたのなら同情のコメントひとつ書いてもいいが、そうではない。
ツイキャスでこの件をかいつまんで話してみた。いったいどういう層がこの動画に熱狂するのか。誰か教えてほしい。
とあるコメントに頬を殴られた。「1万円持っていない人です。」
誰かが作った物語に乗っかりたいのは、何かを持っていない人だと気づいた。蔑む意図はない。たまたま自分は自分で賭けられるし、ギャンブルにおいては何かを持っている側かもしれない。しかし、少しフィールドを移してみると、そこでは「何かを持っていない人」になるからだ。
たとえば、レストランに行く前には必ずレビューを読む。それは誰かの書いた物語である。真実である保証などどこにもない。私はメニューと価格帯だけで味を想像する経験値も、何も知らずにデート先を決める度胸も、残念ながら持っていない。
何かを持っていないとき、もちろん知りたいのは正しい情報だ。しかし、その欠落を埋めるのに痛みを伴うくらいなら、飾った言葉でもいいから背中を押してほしい。科学的根拠がないのに占いが流行るのも、帯のスクショがバカみたいに拡散されるのも、理屈は同じである。
夢のある配当金は、それに触れるだけで「自分はギャンブルをやっていていいんだ」と思わせてくれる。それがたとえ嘘でも、物語としての魅力があればそれでいい。最終レースでひとマクりした予想屋は、それがただの非効率な追い上げでも、自分を奮い立たせてくれる。
そんなインプレッション集めるだけのアカウントより、自分の方が真実を伝えている!
そう憤慨したところで、現実は何も変わらない。物語に勝つためには、それ以上に魅力的な物語で殴るしかないのだ。人はお節介な真実に興味など示さないが、それが自分に深く刺さる物語として提示されれば、もしかしたら読んでくれる。何かを持っている自信があるなら、それを大上段から振りかざすのではなく、誰かの欠落を埋めるように、そっと優しく差し出すべきだ。傷口に塗り込む塩のような「真実」は、ときに暴力になる。
思えばそんな営みと向き合った1年だった。そつなくできていた自信はない。感触はわかっているのに、どうも上手くそれを掴めない。
でもこの物語だけは、他の誰にも筆を任せず、自分で書きたい。