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予想屋について思うこと


 師走にせわしなくなるのは、まともな社会だけではない。下賤な商売だって、年の瀬にはその節操をさらに無くし、人間としての尊厳を小銭に換える作業に勤しむ。

 予想屋というのは因果な商売である。言うまでもなく「未来」は誰にも分からないので、的中を保証することは不可能なのだが、さも的中=利得を販売しているかのような予想屋を見かける。当てます、獲ります、信用してください――論理性を欠いたその文言が薄ら寒い。
 予想屋が売るべきなのは、的中までのプロセスであり、情報であり、思考だ。というか、それしか物理的に販売できない。だって未来は不確実でしょう? 蓋然性の高い結論を売ることはできても、的中そのものを販売するわけにはいかないのだ。

 最近、立て続けに予想屋を晒した。手法はそれぞれだが、いずれにも共通するのが「いかにも的中を販売したそうな」その宣伝文句である。
 彼らの予想には中身がないから「当たったこと」しか喧伝できない。そのため、タイムラインは🎯マークで溢れる。それ以外に語る言葉がないのだ。自己を顕示するためには的中がすべてで、だから改竄でも自演でも平気でやってのける。
 彼らは不的中のときに語る言葉がない。たとえば質のいい無料記事を出したり、ツイートで競艇の豆知識を発信したり、そういったリカバリーの手段を持たない。だから買い手が薄くなると「次は挽回します!」という空虚な言葉で塗りつぶそうとする。繰り返しになるが、未来はどうしたって不確実なため、挽回できる保証などない。いかに知性のない発言だろう。胸が締めつけられるほどである。

 質のいい予想屋を見分ける方法についてよく訊かれるが、それは「彼らから溢れてくる言葉」に目を向けていれば、自然と分かるはずだ。前述したように、彼らには中身がなく、ひいては「人格」そのものがない。生きているとは到底呼べない代物なのだ。そのような《出目bot》にお金を払うくらいなら、自分でサイコロを振った方が幾分かマシである。
 大丈夫、あなたのサイコロはどんどん磨かれていく。転がせば転がすほどに論理性を帯びていく。

 《出目bot》たちは、今日もノーリスクでテラ銭を稼ぐために、汚い手でサイコロを振る。万舟を喧伝し、かわり映えのしない文句で煽り散らかす。外したら「ごめんなさい、次こそは必ず」だ。そのくらいのプログラムなら私にも作れる。
 そんな《プログラム》に、まだまだお金を払ってしまう市場がある。その知性のなさに、心の底から同情したい。

 未来は不確実で、不安定で、不可侵で、とうてい解明できない謎である。それに比べて「人間」は、かくも分かりやすいものなのかと、いささか感慨深く思えるのだ。


いつか空の飛び方を知りたいと思っている者は、まず立ちあがり、歩き、走り、登り、踊ることを学ばなければならない。
その過程を飛ばして、飛ぶことはできないのだ。

フリードリッヒ・ニーチェ

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