買ってたら当たってたのに
競艇は締切の間隔が短く、1日に行われているレース数が多い。だからどうしても「買い逃す」というバグが発生する。そんなときに限って当たるのだ。電光掲示板を見ながら、1,000円が5,000円になっているはずだったのにと、辛酸を舐めた経験があるだろう。反対に、締切に助けられたというケースもある。良くも悪くも、我々はタイトな締切時間に振り回されるのだ。
こういう具合である。いつも1,000円を5倍のオッズに賭けるAさんをサンプルに、少し踏み込んでみたい。
①の場合、首尾よく1,000円が5,000円になって、収支は4,000円のプラスだ。何の問題もない。的中したことを素直に喜ぶ。
②の場合、失う金額は1,000円だ。こちらも何の問題もない。不的中になったことを素直に悔しがる。気持ちは次のレースに向くだろう。
④の場合、1,000円を失わずに済んだ。収支はプラマイゼロ。いや、1,000円の利益と捉える方が自然か。ホッと胸をなでおろし、やっぱり気持ちは次のレースに向くはずだ。
問題は③である。収支はプラマイゼロのはずだ。賭けていないのだからそう考えたい。しかし④の場合に「1,000円得した」と思ったのなら、ここでは「4,000円損した」という感覚が自然である。本来なら4,000円儲かっていたところなのに、手元には1円も入ってきていないからだ。買っていれば当たっていた。この後悔は強く胸に刻まれる。
収支の順に並び替えるとこうなる。買わなかったときの的中は、買ったときの不的中よりも「精神的な損失」が大きいのだ。
ここで、経験する回数について考えてみたい。買い逃す確率をどのくらいで見積もるかは難しいが、10%程度だと仮定しよう。5倍のオッズに賭けるAさんの的中率は20%と仮定する。回収率100%、そこそこ優秀なベッターだ。
100回賭ける機会があった場合、Aさんは10回買い逃す。90回買ったうち的中①は18本だ。不的中②は72本。これが最も経験回数が多い。
10回買い逃したうち、8回はそのまま不的中④になる。そして問題の③は2回。100回のうちたった2回である。
それぞれに名前をつけてみよう。①はそれなりにある良い出来事だ。友人との会食や仕事での成功。④はあまりない少し良い出来事、茶柱が立った程度のささやかな幸せとしよう。②は頻繁に起こる少し嫌な出来事、通勤の満員電車。③は滅多に起こらない最悪な出来事。交通事故という喩えは少し不謹慎だろうか。ご容赦願いたい。
どれが一番印象に残るかは明白である。交通事故の痛みは強烈だ。
①が多少心に残ってくれるとしても、③の痛みを消すほどではない。発生回数以上に印象が強く、過剰にそれを怖がる。それだけなら問題ないが、ことギャンブルにおいては「だからとにかく買わないと」という強迫観念に繋がってしまう。
締切が迫り、買うか買わないかの瀬戸際、③のケースがフラッシュバックする。買わずに来たらどうしよう。それでも冷静な思考を保てるだろうか。否、そんなに精巧な脳の作りをしていないと悲観すべきだ。
買ってたら当たってた、そんな経験を次の決断に影響させてはいけない。いくら理性的でも、後悔そのものをしないのは難しいだろう。しかし、その後悔を次に持ち越さないことは、紛れもなく理性の守備範囲なのだ。