〆切に助けられた
検討に時間がかかったり、あるいは急な電話でタイミングを逃し、無情にも投票を締め切られることがある。
競艇はレース数がアホみたいに多くて、何場も追っていると締め切りの間隔がタイトだ。他の公営ギャンブルよりも締め切りの悲喜こもごもが多いと推察される。競馬で締め切りを逃した事例をあまり見かけない。宝くじを買い逃した人はほとんどいないだろう。そのあたり、競艇というギャンブルは「時間との戦い」である。
締め切られたレース。買おうと思っていた出目があっさり紙屑になると、多くの人はほっと胸を撫でおろす。〆切に助けられた。そんな言葉がタイムラインに散見される。その言葉を見かけるたびに、私もほっと胸を撫でおろす。まだ勝てる。そう思うのだ。
買えなかった舟券が結果的に外れたときに「〆切に助けられた」と考える人は、自分の期待収支がマイナスであることを自己紹介している。
競艇は回数を重ねていくことでしか稼げないギャンブルだ。投票1回は「期待値へのベット1回」であって、そこで収支が決まるわけではない。年間4,000レース程度賭けるのであれば、その1回は1/4000だ。全体の収支に及ぼす影響度合いはかなり低い。しかし、低くてもそれを積み重ねることでしか収支は形成されない。
ひとつひとつは運でしかない。それでも積み重ねていけば、運不運は(多くの場合)ならされて、自分が目指すべき収支に近づく。その積み重ねる意識さえあれば、1レース単位の結果なんて些末なことだと思える。それよりも、賭けるべきレースに賭けられなかった機会損失の方がよほど怖くなる。「〆切に助けられた」という感覚とは真逆である。たとえ外れようとも賭けるべきだった。こう思えないようなら、その人の舟券の期待収支は論理的にマイナスなので、つまり賭ける前から敗退している。
人間は、結果が出てから冷静に振り返るのが苦手だ。
例の侵略戦争を「予期していた」と平気でのたまう学者がいる。一度何かが起こってしまうと、それを予期していた自分というものを作り出す。辻褄があうようにストーリーを組み立てる。こういうことは得意なのだ。一方で、出された結果とは違う現実を想像し、それに対して本気で回顧することは、人間の脳には処理しきれない難題だ。
締め切られたレースについて、当たるか外れるかを眺めているその瞬間、人はとてつもなく無意味な時間を過ごしている。結果が出てからでは遅いのだ。どうせ結果が出てしまったら、その結果によって意識が変わる。当たったら「買えばよかった」と後悔するし、外れたら「〆切サンキュー」だ。大衆がこの意識でいてくれる限り、鉄のようなメンタルで賭け続ける上級ベッタ―や、メンタルとは無関係なプログラムで投票するbotterは、勝てる可能性が非常に高まる。
「〆切に助けられた」人に、私は助けられている。