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愚かな生存者
不安定な世界情勢になると必ず登場するのが「予測」である。
膨大な量の未来が語られ、そのうちほとんどは外れるが、稀にぴったり当たってしまう。当てた人々は二次予選に進む。二次予選もハイスコアを叩き出すと、その人は神様のように崇めたてられる。優れた「予測者」はこうしてできあがる。
極めて稀な事例でも、どこかにそれを引き当てる人がいる。宝くじで1等が当たる可能性は限りなく0に近いが、誰かが当選する確率は100%だ。世界情勢の未来をぴったりと当てる「3億円当選者」は、この世のどこかに存在する。
その背後には、200円しか当たらなかった膨大な数の「失敗例」が存在する。何らかのプロセスを「生き残った」かどうかの違いだけなのに、過剰に意識が向けられる神様と、忘れ去られる失敗例に分かれる。こうした視野の狭さによって生じる論理的思考のミスを、心理学では生存バイアスと呼ぶ。
公営ギャンブルだって例外ではない。むしろこうした生存バイアスの純粋表現で溢れている。
高配当を的中した予想屋に寄せられる賛辞のコメント。賛辞であればまだ可愛げがあるが、ときに崇拝ともとれる発言を目にする。その予想屋はレースにおける単純な生存者で、たまたま運が良かっただけかもしれない。誰かが外せば誰かが当たるのだ。たかだか120通りのギャンブルである。誰も的中しない方が珍しい。
「そのこと」を崇拝する合理的な理由は、残念ながらどこにもない。
高配当が出た予想をいつまでも固定ツイートにしている予想屋がいる。「それ」がアピールなら、寂しい限りだ。自分には「生存者になった強運」しかアピールポイントがないと、そう自己紹介してしまっている。
それで引き寄せられた人は、次のレースで彼が死者となったとき、その亡骸を弔うこともなく去っていくのだ。彼の価値は「生きていること」だけだったのだから当然である。
そうしてしまったのは自分だ。
アメリカの法思想に多大な影響を与えたリチャード・エプスタインは、その晩年に「愚かに勝つくらいなら賢く負ける方がマシと割り切って考えるのは愉快だ」と語っている。
自分はどのようにして負け、それをどう糧にして、いまどう行動するべきなのか。そのプロセスすら言葉にできないようでは、愚かな生存者にしかなれない。
そして幸運にも生き残ったときには、黙して語らず、次に負けたときの準備をすればいい。その背中にこそ宿る魂がある。