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 目が覚めると、男は崖の端に立っていた。重たい雲が遠くに見える。それを跳ねのけるように、濃い水面は全体を揺らしていた。
 しばらく眺めていると、そのまま海の底へ吸い込まれそうな心地がして、男は後ずさりした。砂利が鳴る。訳もなく鼻をすすった。
 頭上から声がしたのはそのときだ。
「やあ」
 男は首筋を強張らせて、目線だけを上げた。
「そんなに驚かなくてもいいじゃないか」
 声の主は見当たらない。
「誰だ」
「誰だっていいじゃないか」
「ここはどこだ」
「どこだっていいじゃないか」
 声のトーンは一切変わらない。男は気味が悪くなった。首全体で見上げる。曇天が広がるばかりだった。
「幸せか?」
 そう尋ねられ、男はもう一度鼻をすすった。質問の意味が分からなかった。
「幸せなのか?」
 男は考えた。記憶はしっかりしていた。

 いまにも潰れそうな零細企業で経理をしていた。仕事の時間は苦痛だったが、仕事が終わるのはもっと苦痛だった。家に帰ってもやることがなく、適当に買い求めた惣菜を並べて、ぼんやりとテレビを見て、何度も流し読んだサイトを閲覧して、そうしているうちに眠気が訪れる。その繰り返しだった。

「幸せか?」
 声の主は静かに言った。
「どうだっていい」
 男は答えた。そんなこと考えたこともなかった。
「今の生活に不満はないのか?」
「ない」

 男は金を遣わない性分だった。風俗はたしなみ程度で、飲み会も滅多に行かない。ギャンブルは性に合わず、取り立てて蒐集癖もなかった。食事や服装にはこだわらない。家賃は六万ちょっとだ。
 仕事内容は楽で、何のプレッシャーもなかった。事務作業にミスはつきものだが、その失敗を大袈裟に叱るような上司もいない。淡々と業務をこなし、その分の給与を貰った。貯金をしている自覚はないが、毎月いくらかお釣りが来た。そんな生活を十年もしていれば、自然と金は貯まっていた。

「夢はあるか?」
 声の主は相変わらず無感情だった。
「ない」
「車は欲しいか?」
「必要ない」
「結婚はしないのか?」

 最後に恋をしたのは数年前だ。正確に思い出せない程度の恋だった。当時やっていたマッチングアプリで知り合った女性と食事をした。ノースリーブから覗く肩が綺麗で、丸みを帯びた顔だちは優しげだった。
 洒落たカフェレストランを予約するくらいの気遣いはできた。席に着いてから、しきりに店内を見渡していたのが愛らしかった。いい女性だな、と思った。
 しかし、最初のデートを終えたとき、男はもう二度と会うまいと誓った。自分から生み出される会話の少なさに辟易したのだ。何一つイベントのない人生は、男から会話を奪った。男にできたのは相槌だけだった。
 会話をするのが怖くて仕方なかった。中身がない人生を直視する羽目になるからだ。
 生きているというより、ライフゲージが減っていくのを眺めているような人生だと感じた。

「結婚だけが人生じゃない」
 そう応えたものの、では人生とは何かと尋ねられたら、今度こそ返答を失う。男は苛ついた。しかし声の主は、
「かもしれないな」
存外にもそう言った。
「最後の質問だ。お前は自由か?」

 崖から海を眺めたとき、男は恐怖を抱かなかった。むしろ少しばかりの喜びを感じた。
 死にたかったからではない。むしろその逆だ。すぐに崖から飛び降りない自分には、意思がある。生への執着がある。生きたいと思う心がある。そう思えたからだ。
 中身がなくとも、人に話せる何事かがなくとも、生きたいという根源的な欲求さえあれば、それが大義名分になる。生きている意味がある。自分は欲求に従っているだけだ。何も恥じることはない。

「自由が欲しいか?」
 男は返答に窮した。自分に言い訳をして、何かに生かされているように人生を消費していた。たしかにそこに自由はなかった。否、正確に言うなら、自由を放棄していた。
 完全に自由だったら、どんなに楽しいだろう。もう言い訳は必要ない。生への執着にしがみつかずとも、自分の意思で、羽ばたくように、解放的な人生を送ることができる。
「自由は欲しい」
 男は絞りだすように言った。
「自由になったらどうする?」
「仕事を辞める」
「その後は?」
「何か好きなことを見つけよう」
「その後は?」
「いろんなところを旅したい」
「その後は?」
「愛する人と結ばれたい」
「その後は?」
「子どもを作って、俺は専業主夫にでもなるかな」
「その後は?」
「子どもにはスポーツをやらせよう。こう見えて陸上部のエースだったんだ。俺に似れば足は速い」
「その後は?」
「勉強は苦手だった。頭のいい奥さんならいいな。読書感想文くらいなら手伝ってあげられる。国語は優だったんだ」
「その後は?」
「子どもが大きくなったら、時間をとって奥さんと旅行しよう。温泉とか」
 男は幸せだった。

「お前はいまこの瞬間から、完全に自由だ」
 声の主はそう言った。
「何にも縛られることはない。お前はお前のしたいようにできる。完全に自由だ」
 男の視界がぼやけた。

 海はすべてを吸い込みそうな蒼だった。
 声が聞こえなくなった。
 男は崖から飛び降りた。

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