1000倍
「さすがに手が震えましたよ。10万円ですからね。100円が10万円。いや、正確に言うと800円、ですが」
男は照れくさそうに笑った。最初に会ったときよりも随分と痩せたように見える。血色はそれほど悪くない。
「僕はね、いつも決まってそのくらいなんです。1点100円、10点前後で穴を狙う。結構考えて買うんですよ。でも当たりませんね」
「低額でもそれなりに負けるでしょう」
話を合わせる。
「そりゃあ、1日ぶっ通しでやれば何万っていかれてしまいます。だからね、マイルールを設けていたんです。5,000円負けたら終わり。その日はもうやりません」
「ほう」
「このルールは破りません。自分で決めたことも守れないんじゃあ、男が廃るってもんです。平凡なサラリーマンでしたから」
男が勤めていたのは中小企業だ。毎日何万円も負けられるような実入りではない。
「それでね、自分でも偉いと思うんですが、当たったときもそこできっぱりやめるんです」
「意思の強さ、ですか」
「いい気分で終わりたいじゃないですか。穴ばっかり買っていたもんで、当たれば1万円くらい浮いているんです。ちょっといいご飯が食べられます。そのくらいのギャンブルがちょうどよかった」
「負けるときも5,000円で済んで、買ったらその倍くらいは取り戻せている。割合で言えば」
「割合だなんて、無粋な」
手で話を制される。細い指だ。
「その日がいつもと違う日であることが大事なんです。トータルでどうとか、そういうのは気にしていません。今日は浮いた、それが面白い。今日はダメだった、それもまた清々しいんです」
「そういうもんですか」
私には分からない感覚だった。しかし、男の日々を想像するに、小銭を賭けたギャンブルでもなければ耐え難いほどの退屈だったのだろう。会社と自宅の往復、趣味らしい趣味もない。家族はおらず、友人づきあいも限られている。
「その日もね、マイルールが近づいていたんです。今日もダメだったか、なんてね、安酒買って映画でも観ようと思ったんですよ。そしたら10万。震えるでしょう」
「嬉しかったですか」
「嬉しいなんてもんじゃないですよ。それまではね、最高で2万ですか。そのくらいです。それが一気に10万。あなただっていきなり空から降ってきたらさすがに嬉しいんじゃないですか」
この仕事の報酬がそのくらいである。たしかに、こんな面倒な会話を何度かスキップできるなら嬉しい。
でもね、と男が悲しげな表情を見せた。哀愁というより、一種の悟りのような顔である。
「最初に何を考えたと思います?」
「なんですか」
「これで20日間、タダで負けられる。そう思っちゃったんです」
児童売春と聞いて、どんなクズが目の前に現れるのだろうと思ったら、情けなさが顔に張り付いたような中年だった。
留置場のアクリル板越しに語られた内容は、その男の人生の空虚さそのものだ。突然手に入った大金の使い道に悩んだと言うから、もう少し骨のある外道話が出てくると思ったら、なんとも情けない。
男は気づいてしまったのだろう。ギャンブルで得た「特別」が、ギャンブルで損をする「日常」に吸い込まれていくその現実に。その日を退屈から切り離すのは容易ではない。胸躍るような僥倖ですら、淡々と収束してしまう。
そうは言っても、もう少しろくな散財はなかったものかと呆れる。国選で流れてくる仕事なんてだいたいこんなものだが、嫌気がさす。5回の接見で10万円。男が空から降ってきて、そのやり場に困った10万円を、私はこの「退屈」で得ている。
「留置場も悪くないですね。普段読まないような本で時間が潰せます」
「まぁ、これを機に、少しは心を入れ替えてください」
「そろそろ事件の話でもします?」
ぶん殴りたくなったが、ここで自分の人生を分散させるわけにはいかない。書類に目を落としながら、今日の酒の肴のことを考えた。
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