あなたがギャンブルをする理由
興味深い記事が流れてきた。若者の「絶対に失敗したくない」という意識について、事例を挙げながら掘り下げられている。
ギャンブルについても示唆的な部分があったので、以下に引用したい。
ここではZ世代固有の特徴のように書かれているが、これ、他の世代にもある感覚ではないだろうか。
doをする毎日に疲れ、beの時間を欲する。TikTokだと若者の利用が目立つが、Youtubeのショート動画は幅広い世代に観られている。目的のない時間が心地よいのは、多くのヒトに共通するはずだ。
ここで、何のためにギャンブルをするのかという疑問について、ある観点が見えてくる。
あなたがギャンブルで1日に稼げるのはいくらだろうか。パチンコを例にあげるなら、おおかた数万円といったところだろう。公営ギャンブルでも、常識的な掛け金で稼げるのはその程度だ。
では、次のケースを考えてみてほしい。1日のはじめに、酔狂な篤志家から数万円を手渡されてこう言われる。「君が稼げるのは、運が良くてもこのくらいだ。だからこれをあげよう。その代わり、ギャンブルせずに1日中部屋でじっとしていなさい。」
あなたは退屈と引き換えに金銭を得たが、それで満足できるだろうか。
たしかに、ギャンブルで直接的にやりとりされるのは金銭だ。その対価があるから熱中できる。しかし、もっと根本的なところには「この退屈な世界」が横たわっている。
やりたくもない仕事をして、家事に追われて、飲み会で当たり障りのない会話をして、休みは睡眠で消化して、ぼうっとYoutubeを観ていたら日が暮れている。何かしたい。退屈は不安だ。しかし能動的に何かをするのは面倒だ。そんなときに、ちょうどよく身を任せられる対象があれば、そこに飛びついてしまうだろう。
勝つ前提で例示したが、もちろん負けることもあるのがギャンブルだ。ギャンブルで負けるのは苦しい。苦しいけれど、退屈な世界に閉じ込められる苦しみよりは遥かにマシなのだと言える。
積極的にならなくても、そこにあるハンドルを握っていれば時間は過ぎていく。出走表からありそうな数点を選んで、あとは繰り返しレースを眺めていれば時間は過ぎていく。宝くじを買って3億円の夢を見ている間は、日々の生活が彩る。人は賭博を通して、退屈を埋めている。
20世紀を代表するイギリスの哲学者バートランド・ラッセルは、自身の幸福論の中で、退屈の反対は興奮だと述べた。利得や快楽ではなく、人は単に興奮を求めている。何も起こらない退屈を、少し紛らわせてくれるような興奮だ。だから負けても構わない。興奮さえ得られれば、ギャンブルをする目的は達成したことになる。
セックスやイベント、映画鑑賞やドライブ、そういったものから得られる興奮は、獲得するためにそれ相応の努力を要する。
一方でギャンブルは、受動的に興奮を得られる装置である。金さえ用意すればbe的に興奮を得られる。依存するのも無理はない。be的な興奮装置は、この世界にありふれているわけではないからだ。
ギャンブルから得られるのが興奮だけなら、それは少し寂しい。せっかくなら本質的に楽しみたい。刹那的な興奮と快楽を混同するのではなく、ちゃんと心の底からギャンブルを楽しめれば、どれだけ救われるだろうか。
ギャンブルには様々な要素があって、それは刹那的な興奮だけでは語れない。実は賭博というものは、古来から心理学、経済学、数学、物理学、生態学、哲学に至るまで、学際的に捉えられてきた対象だ。そこには奥行きがある。表面的な興奮だけではない何かがある。それを掴もうとする営みは、もしかしたらギャンブルの「本質的な楽しさ」に繋がるかもしれない。
ギャンブルという世界の内側から、一歩外に出てその世界を眺めてみることで、do的な楽しさを感じられるときが来るだろう。
能動的であるが故に心底満足できるような、そんなユートピアがそこにあるのだとしたら。自信を持って結論づけられることではないが、少なくとも私はそこに希望を見出している。