こんな有様
競艇の予想を書くのは楽しい。楽しいから中毒気味になったことがあって、以前は鬼のような長文予想をオプチャに流したりしていた。今でもたまにその古き良き時代の片鱗が垣間見えることはあるものの、記載する内容はかなり変化したように思う。
ツイートもしたけど、こんなのもう「予想」ではないですよね。1Mがどうなるとか、足がどうだとか、選手特徴がどうのこうのっていう着眼点はすべて削ぎ落とされて、この番組で何を買うべきかという点だけを書いている。
それは自分が「予想より戦略」だと考えているからで、勝つために必要な思考を記載することに終始するとどうしても「予想」の部分は削られてしまう。展開云々足云々って、そのときその場限りの妄想であることがほとんどで、次には繋がらない。それを売っても、じゃあ今後一生自分の予想買ってもらうのかって話になってしまう。だから血肉にできる戦略を伝えたい。
でも、その場限りの妄想の方が楽しい。わかる。3号艇の捲り差しが弾かれるんじゃないかとか、二番差しでも頭まで来られる伸び足だとか、道中戦を制しそうな活きの良いルーキーがいるとか、そういう要素に注目して「予想」を組み立てることこそが醍醐味だ。
その娯楽を自分から手放した。目の前のレースはただの過程となり、向き合うべきは継続的な戦略となり、探求は「人間がギャンブルで犯す間違いとは」などという抽象的なものとなった。せめてもの娯楽的要素として過剰に選手を罵倒したりするけど、心の底ではどうでもいいと思っている。森高一真と野村誠以外は何をされたところで腹も立たない。年間数万とあるレースのうちのひとつに心など動かされない。「上海蟹食べたい 泥谷と食べたい」などとネタ・ツイートをしたら完膚なきまでにスベったし、もうこの芸風にも限界が来たのでは。敬愛なるフォロワー様には見抜かれている。
ギャンブルで継続的な収益を得ようとすると、どうしても立ち回りは「的中率度外視/多レース参加」になるし、ひとつひとつのレースへの愛着というか、割ける熱量みたいなものは減っていく。会心の合成15倍を撃ち抜いたって、数分後には忘れてるんですよね。それのどこが楽しいのだろう。
でも、楽しんだら負けるって知っているから、歯を食いしばって淡々と賭ける。その道のりで見つかるものの中に、もしかしたらとんでもない宝があるんじゃないかって思っている。そうでもなければやってられない。
とある捨て垢が「元ホテは理論ばかり語っている雑魚」とツイートしていた。理論を抽象論と言い換えるならその通りで、だって目の前の具体は捨てたんだもん。仕方ないじゃん! 何なのよアンタ!
誰々がどうだとか、34号機が何だとか、水面が、満潮が、八百長が、支部長がって、もう捨てたの。私捨てたの。そんな人とはもう付き合ってられない、私はロマンスだけ追い続けていくって決めたの。具体と抽象のどちらがロマンチックかって、そりゃもう後者の圧勝ですよ。刹那的な具体の海で楽しむ毎日も魅力十分だけど、もしかしたらこの脳を焦がすような「解答」が見つかるかもしれないって考えたら、そんな具体の酒池肉林は捨てられる。
ギャンブルにそんなことを求めても無駄。楽しんでナンボ。そういう意見だってもちろん分かるし、むしろその捉え方ができるなら成功だと思う。3万だけ握って競艇場に足を運び、アップダウンを経て最終レースにオールイン、浮いた金で酒飲んでソープ行くような娯楽。それでいい。
ギャンブルがそういう対象として周知されているから、私は逆張りしたくなってしまった。あなたが峰を外して買うように、私は賭博の正規ルートを外れてみたくなってしまった。具体の悦楽から抜け出して、抽象の世界で苦しんでみたくなってしまった。別に変態だとは思わない。誰もが何かしらで逆張りをするでしょう。それがたまたまこの有様だっただけ。
そう、この有様。ご覧の通りの有様です。今日も23倍の1-2-3の1点買いなどをしながら、ギリギリまで収支と精神を分散させて、目の前の競艇を抽象化しています。こんな私でごめんね。