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恋愛とギャンブル


 人には忘れらない恋のひとつやふたつあるだろう。そんな書き出しも、アセクシャルへの配慮が足りないと糾弾される世の中になってしまった。多様性、多様性。主語を大きくするのが問題である。あなたは、忘れらない恋がありますか。そう、二人称で書けばいい。
 私にはある。遠く昔のことのように思えるが、まだ十年ほどしか経っていない。たびたび思い起こしているから、未だに鮮明だ。専門的に言えば、海馬依存的に形成された記憶故に、大脳皮質依存性に移行し保存されている。厄介だ。

 沖縄と埼玉の遠距離恋愛。当時私は大学生、相手は高校3年生だった。5月、怠惰な香りのする浅草で偶然知り合った。向こうは修学旅行の最中だった。男4人でうらびれた喫茶店にいたところ、彼女たちのグループがそこへ来て、よせばいいのに友人が話しかけ、なんやかんやとあってメアドを交換することになった。メアド。当時、私はガラパゴスケータイを使用していた。
 3ヶ月ほどメールのやりとりをして、夏休みに沖縄に行った。そのときから付き合うことになる。彼女は受験生だったので、それを穏やかに応援しつつ、東京の大学に合格することを祈っていた。薬学部志望だった。
 結果、合格できず、浪人時代に「スレ違い」から別れる運びとなった。それほどロマンティックでもドラマティックでもない。しかしながら、ある一点において、私のニューロン群は強く強くシナプス結合している。

 12月。冴え冴えしい月が気持ちを昂らせるような夜に、彼女は「会いたい」とメールしてきた。受験は間近に迫っている。ジャージで気軽に出かける距離でもない。直線距離にして1500キロメートル。ちなみに人工衛星は地上500キロメートルあたりを周回している。
 時期はちょうどクリスマスだった。私はチケットをとった。一泊二日の弾丸沖縄旅行。麻雀の調子が良かったこともあり、金銭的な迷いはなかったが、やはり気がかりなのは受験だった。
 結果的に浪人時代に別れることになったが、このときから、薄ぼんやりと「浪人したらもたないだろうな」という推測があった。イギリスの天気より変わりやすい少女の恋心を、埼玉の大学生が繋ぎ留めておくことはできないと思っていた。つまり、ここでひとつの賭けが生まれる。言うなれば出目選択、打牌選択である。

クリスマスをともに過ごす→A:受験に合格するorB:落ちる
クリスマスをともに過ごさない→C:受験に合格するorD:落ちる

 もっとも好ましいのはAである。最悪なのはDだ。そこについて考えても仕方ない。悩ましいのはB/Cの比較なのだ。ともに過ごして落ちるのは、その後別れることになりそうなケースを考えると、刹那的な快楽に溺れるルネサンス期のヨーロッパ心理に傾きすぎている気がする。ともに過ごさずに合格すれば、未来は続くかもしれないが、彼女が「結局合格するなら会いたかった」と言い出しかねない。それに、会わないことで即座に関係が解消されることだってあるのだ。
 意思決定理論など学ぶ前だったので、それぞれの選好について細かく検討せずに、私は「会うことでやる気が出るだろう」という都合のいい論理で、羽田空港発那覇空港着の国内線に搭乗した。それは紛れもなく自分の中での「賭博意識」の端緒だったし、結果的にそのギャンブルに負けた自分の恥でもあった。

 会いに行かなくても、別れていた可能性は高い。私は(当時女子高生だった彼女からしたら)紳士的でそこそこ優秀な大学生に映っていたようだが、それからの人生、片時もギャンブルが離れることなく、纏わりついた賭博意識と屈折した哲学の間でもがき続けている。その姿を見てもなお、彼女が私に惚れ続けているとは思えない。
 それでも、実力で負けたかった。あのときの受験は、どうしようもない偶然性に支配された結果としてそこにあったのだ。クリスマスの選択も、受験結果にどのような影響を与えたのか不明瞭なままである。それがずっと頭に引っかかっている。
 自分が選択した道の先しか知れない理不尽さを、あれほど強烈に痛感したことはない。
 後悔などという生易しい感情ではなかった。後悔すら上手にできないことが、この理不尽人生ゲームにはたくさんある。

 そのことに気づかされた冬、あるいは初春の、止まったままの記憶が海馬に息づいている。



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